外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫
今回は、ベトナム戦争での私の体験を踏まえ、ウクライナ戦争をどう見るかを大局的に論じる予定でしたが、戦争が長期化しており、今後どう展開していくか見通しが困難な状況なので、後日に回して、別の重要なテーマを取り上げることにします。
ウクライナ戦争でエネルギー危機
3カ月前に始まったロシアのウクライナ侵攻に伴い、西側先進国(日本を含む)による対露制裁が強化されており、ロシア産の天然ガスや石油などの輸入を禁止する動きが広がっています。その結果、世界的にエネルギー資源の供給がひっ迫しており、各国で燃料価格が高騰し、対応に苦慮しています。例えばドイツは、従来ロシアからパイプラインで大量の天然ガスを輸入しており、これが完全にストップすると大変な事態になります。
日本も、従来ロシアから天然ガスをかなり輸入(全体の約9%)しています。ウクライナ戦争以後ガソリンや電力価格は高騰し続けており、今後さらに需給関係がひっ迫すれば大規模停電などの危機に襲われるおそれがあります。また、ロシアとの共同事業である「サハリン2」については、もし日本がこれらの利権を手放せば、中国をタナボタ式に利することになりかねません。対露制裁には両刃の剣のような面があり、単純ではありません。
一方、地球規模で見ると、今や気候変動問題は待ったなしの状況にあり、温暖化防止のための国際協力が進展しています。日本も「2050年カーボンニュートラル(脱炭素化)」政策を掲げ、再生可能エネルギーの拡大と化石燃料発電の縮小の実現に取り組んでいますが、肝心の再生エネ(太陽光、風力、地熱など)は計画通りには伸びていません。元々太陽光や風力は日照時間や風況に大きく左右され、不安定です。
こうした状況の中、従来環境意識が盛んで、反原子力傾向が強かったヨーロッパでは、EU(欧州連合)の主導で、原子力発電の再活性化を図ろうとしており、フランス、イギリスなど複数の国では原発新設の動きが始まっています。
ところが、欧州諸国よりもっとエネルギー資源小国で、エネルギー自給率(図表)が極端に低い日本は、11年前の東京電力福島第1原発事故以来、反原発ムードが強く、再稼働が進んでいません。事故以前54基あった原発のうち、現在稼働しているのはわずか10基(定期検査で停止中も含む)。電力供給の予備率は既に許容水準を切っています。再エネもさまざまな問題を抱え、伸び悩んでいます。このままでは、日本は八方塞がりで、もし世界的なエネルギー危機が加速すると深刻な事態になります。
私も昔環境保護主義者だった
私は、昨年1月11日付けの本欄「『グリーン社会』実現のために」で論じたように、環境保護や温暖化防止とエネルギー安全保障は共に重要な課題で、日本は、この二つの目標を同時に達成するためには、原子力の拡大以外に現実的な選択肢は無いと考えています。原子力は発電時にCO2を出さない、クリーンなエネルギーで、天然資源の乏しい日本にはうってつけだからです。しかも日本は世界有数の優れた原子力発電技術を持っています。
しかし、環境保護や地球温暖化防止を重視する人々の中には、どうしても原子力は嫌いだ、絶対反対だ、再生可能エネルギー以外はダメだという、つまり確信的、イデオロギー的な「環境至上主義者」が少なくありません。
びっくりされるかもしれませんが、実は私自身も、半世紀以上昔は環境保護主義者でした。というより、おそらく日本で最も古い環境主義者で、いわば日本の環境保護運動の元祖のような存在でした。現在世界的に活動している多数の環境グループや自然保護団体を育成した一人だと自負しています。
そのような経歴を持つ私が、いつどうして環境保護主義者から原子力推進論者に転身したのか、そもそも一介の外交官である私がどうして環境問題に深い関わりを持ったのか、そして、どういう動機や経緯で、環境問題から原子力やエネルギー問題の専門家に「宗旨替え」をしたのか。不審に思われる人が少なくないようなので、この機会に(いささか自慢話になるかもしれませんが)私の前半生について語らせていただこうと思います。
私の環境問題との出会い
前回詳しくお話ししたように、私はベトナム戦争最盛期の1960年代半ば、旧南ベトナムの首都サイゴン(現ホー・チ・ミン市)の日本大使館に勤務し、歴史的な「テト攻勢」(68年)に巻き込まれて危うく一命を落としかけたりしましたが、奇跡的に生還し、同年秋に帰国。東京の外務本省勤務を始めました。
その後国連局(現在は総合外交政策局)の科学課勤務となり、そこで、当時「ビッグサイエンス」と称された原子力平和利用、海洋開発、宇宙開発、南極問題等を担当することになりました。東京オリンピックの4年後ですが、ちょうどこの時期、戦後の高度経済成長の「落し子」として発生していた公害問題(水俣病、四日市病など)が全国各地で深刻な社会問題となっていました。
同じ頃、海外では大気汚染、酸性雨、海洋汚染などの越境汚染、野生動植物や貴重文化遺産の保護等々、多種多様な「環境」問題が表面化しており、これらを解決するための国際協力の必要性が叫ばれていました。そのことを最も熱心に唱えたのはヨーロッパ諸国です。
とくに北欧のスウェーデンは、美しい森と湖で有名で、古くから国民の自然保護意識が高い国ですが、当時、旧ソ連圏の東欧諸国の火力発電所や工場などから発生した大量のCO2がバルト海を越え、酸性雨となってスウェーデンの森林や湖沼を汚染したことに危機感を持っていました。
そこで、スウェーデン政府は、こうした汚染や自然破壊の悪化を防ぐためには国際協力が不可欠と考え、国連総会で強く訴えました。その結果、68年の総会で「国連人間環境会議」を72年6月にストックホルムで開催することが決定。この会議のために特別の準備委員会が設置され、私が日本政府の窓口担当官として3年間関与することになりました。これがその後の私の人生に大きな影響を与えたのです。
50年前に最初の環境会議開催
さて、このような経緯を経て、ジャスト50年前の今日、72年6月5日、スウェーデンの首都ストックホルムで、「国連人間環境会議」と称する大国際会議が開催されました。
現在では、国連主催の大型国際会議は頻繁に開かれており珍しくありませんが、当時は、未曽有の、画期的な国際会議として世界的に注目されました。そして、2週間にわたるこの会議こそ、その後開催された数々のグローバルな環境問題の出発点となったのです。
一昨年11月英国グラスゴーで開催された、地球温暖化防止のための国連気候変動対策会議(C0P26)もストックホルム会議の延長線上に位置づけられます。
現在ではこの会議のことはすっかり忘れられてしまった感がありますが、「かけがえのない地球」というキャッチフレーズを記憶している人は少なくないでしょう。手前みそながら、この有名なフレーズは、ストックホルム会議の2年ほど前に、同会議の公式スローガンであった「Only One Earth」の日本版として、私が自ら考案したものです。それには深い動機がありました。
「かけがえのない地球」の意味
現在では環境問題は小学生でも理解していますが、当時の日本には「環境」問題という概念や意識がありませんでした。国内ではもっぱら水俣病などの「公害」問題に人々の関心が集中していて、大きな社会問題になっていましたが、「環境」問題という概念は普及しておらず、「公害」問題と「環境」問題の関係もはっきり理解されていませんでした。
そこで、ストックホルム会議の準備委員会には、厚生省(現厚生労働省)や通産省(現経済産業省)などの公害問題担当者をかき集めて代表団を編成して出かけたのですが、欧米諸国の代表の意見を聞いていて、どうも様子がおかしいことにすぐ気が付きました。
日本でいう「公害」は、水俣病などの公害病がそうであるように、総じて局地的で病理的な捉え方であるのに対し、国際社会でいう「環境」問題は普遍的、国際的でポジティブな概念で、取り組み方もより一層包括的、ダイナミックです。ですから、いつまでも「公害」という狭い認識のままでは国際協力に乗り遅れ、行く行く不利な立場に立たされかねないという懸念や焦燥感を抱いたわけです。
そこで私は、いろいろ思案した結果、「公害から環境への意識革命」の必要性を痛感し、そのために、前述のように「かけがえのない地球」というフレーズを自ら考案し、全国に普及させました。また、同じ時期に、政府は、環境庁(現環境省)という役所の創設を閣議決定しましたが、その新官庁の名付け親は私です(原案では公害対策庁)。
「人間環境宣言」の採択
さて、そのようなさまざまな曲折を経てストックホルムで開催された世界最初の「国連人間環境会議」には全世界から113カ国が出席しました。日本からは大石武一環境庁長官を首席代表に、各方面の専門家からなる大型代表団が出席。私は代表団の中核メンバーとして参加しました。民間の代表として、九州の水俣病患者も数人参加し、注目されました。
2週間にわたるストックホルム会議では「人間環境」という全く新しい概念の下で、地球上の森羅万象ともいうべき多種多様な環境問題が初めて議論され、各国が状況を報告し、それに基づいてさまざまな解決策が提案され、具体的行動方針が採択されました。その中には、26項目からなる「人間環境宣言」も含まれています。これは現在の環境問題解決のための基本的理念と指針を述べたものです。
これらのことを詳述するときりがないので省略し、関心のある方はネットで調べていただくとして、ここでは一つだけ商業捕鯨禁止問題について簡単に触れ、そこから日本が今後の環境(気候変動)、エネルギー外交のために学ぶべき教訓を考えてみたいと思います。
(2022年6月2日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)
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編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。