如何にして「生きる価値」を見出すか:現代のニヒリズムから逃避する方法

ローマ・カトリック教会の名誉教皇ベネディクト16世は2011年、「若者たちの間にニヒリズムが広がっている」と警告を発したことがある。欧州社会では無神論と有神論の世界観の対立、不可知論の台頭の時代は過ぎ、全てに価値を見いだせないニヒリズムが若者たちを捉えていくという警鐘だ。簡単にいえば、価値喪失の社会が生まれてくるというのだ。

ウィーンの月(マーク・トウェイン「人間は月のような存在だ」)

ニヒリズム(独語Nihilismus)は「虚無主義」と日本語で訳される。既成の価値観を信頼できず、全てのことに価値を見出せなく、理想も人生の目的もない精神世界だろう。哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844~1900年)は、「20世紀にはニヒリズムが到来する」と予言したが、21世紀に入った今日、ニヒリズムは益々、その牙を研いできた。

「神は死んだ」と宣言したニーチェは科学時代の到来を予感する一方、「科学は人間に幸せをもたらさない」との思いが強かった。その結果、神を失った人間はどこに人生の指針を置いていいか分からなくなり、文字通り、「永劫回帰の世界」を放浪する存在に陥っていく。学者教皇べネディクト16世は、「現代の若者たちはこの“死に到る病”に冒されてきた」と指摘し、強い憂慮を吐露したわけだ(「「“ニヒリズム”の台頭」2011年11月9日参考)。

人は価値ある目標、言動を追及する。そこに価値があると判断すれば、少々の困難も乗り越えていこうとする意欲、闘争心が湧いてくる。逆に、価値がないと分かれば、それに挑戦する力が湧いてこない、無気力状態に陥る。

ニヒリズムの台頭を予言したニーチェ ウィキぺディアより(編集部)

トウェインとニヒリズム

なぜ、突然、ニヒリズムについて書き出したかというと、前日のマーク・トウェインの自伝の話に戻るが、トウェインは、「もしノアと8人の家族が遅れて箱舟に入ることが出来なかったとすれば、どうなるのか」と自問し、「ノアの家庭が箱舟に入れなかったほうが良かったのかもしれない」と呟いたというのだ。

神はノアに40日間、雨を降らすから、その前に山の上に箱舟を建設して家族と共にその中に避難するように、と警告した。それを受け、ノアは山の頂で箱舟造りに奔走し、大洪水が起きる前に箱舟に入ることが出来た、という話が旧約聖書創世記に記述されている。ノアの8人の家族だけが大洪水から救われた。神は、アダムとエバの失敗を受け、第2の創造を始めたわけだ。

トウェインは、「ノアが大洪水が起きる前に箱舟に入って家族と共に避難できなかった場合」という仮説を掲げ、「そのほうが良かったかもしれない」と述べた。人類の歴史がノアの大洪水で終わっていたならば、その後の人類の禍や不幸は生じなかったはずだ、という思いが込められている(この場合、その後の人類の歴史はなく、トウェインも存在しないことになる)。ユーモアに溢れ、家族思いのトウェインの言葉としてはかなり悲観的な呟きだ。トウェインは生来の楽天主義者ではないのだ。

トウェイン自身が、「ユーモアの隠された源泉は喜びではなく、苦悩だ」と表現し、「人間は月のような存在だ、月の後ろ側には誰にも見せたくない暗闇の世界がある」と述べているから、彼の持つユーモアと温かさは、幸福で楽しい人生の光の部分だけではなく、悲しみと暗い面をも内包しているのだろう。それ故に、トウェインの言葉に多くの人が感動し、心が動かされるわけだ(トウェインには何人もの息子、娘がいたが、多くは早く亡くなった。脳炎で24歳で亡くなった娘スージーは父親トウェインが大好きで、父親の伝記を書いていたという)。

如何にして生きる価値を見つけるか

ここまで書いてきて、「如何にして生きる価値を見つけるか」という大それたテーマを掲げたことを少し後悔している。月には太陽の光を反映した明るい月とその後ろ側の暗闇の月があるように、人間も月のように明暗の両面を持つ存在と受け入れ、生きる意味、価値を見出していく以外にないのかもしれない。

幸い、人間を含む森羅万象は「創られた存在」だ。人間は自身で考え、設計した末に生まれてきた存在ではないし、宇宙も同じだろう。とすれば、それらを創造した存在がどこかに存在しているはずだ。創造した存在は「なぜ創造したか」を知っている。その創造目的を知ることは創られた人間を含むすべての森羅万象の生きる目的となる。

人間、宇宙はただ偶然に生じてきた存在ではない。世界的な量子物理学者アントン・ツァイリンガー教授は、「偶然でこのような宇宙が生まれるだろうか。物理定数のプランク定数(Planck Constant)がより小さかったり、より大きかったならば、原子は存在しない。その結果、人間も存在しないことになる」と指摘している。宇宙全てが精密なバランスの上で存在しているというのだ(「量子物理学者と『神』の存在について」2016年8月22日参考)。

「創られた存在」といえば、何か責任転嫁のような響きがあるが、それ以上に、自分には「生かされている目的、価値があったはずだ」というもっと大きな喜びと使命感を感じることができるのではないか。それを実感できれば、ニヒリズムの世界から逃避できる。そして創造したのが神であるとすれば、神を見出すことで、自身の存在の目的、価値は一層、明確になるのではないか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2022年6月27日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。