政治的テロは政治目的でないことを偽装するのが普通なのか?

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先日、『誰がどんな理由で「安倍氏と宗教の関係がテロの原因」と言っているのか→犯人本人です』をアゴラに投稿したところ、評論家の八幡和郎氏から「政治的テロは政治目的でないことを偽装するのが普通」との表題でご批判を頂戴した。その中では、私のことを「この方はテロというのがなぜ起きるのかまったく理解してない。単なるテロ教唆容認論だ」との指摘もあった。

ちなみに、八幡氏は、今回の安倍晋三元首相銃撃事件の要因を「反安倍」のマスメディアや言論人の安倍氏バッシングが根底にあるとされている。しかし、私は犯人が語る動機を聞き、そうではないと感じた。宗教団体への恨みが募り、その団体と安倍元首相に深い関連があると思い込んだ犯人が、逆恨みし、安倍元首相を銃撃したと私は見る。テロ教唆を容認したいから、そのような主張をしたのではない。

犯人の動機を報道等で見聞するなかで、あくまで現時点においては、政治テロではなく、更には「反安倍」のマスメディアや言論人の安倍氏バッシングの影響を受けたものでもないと判断したのだ(もちろん、今後の犯人の供述によっては、その判断の変更もあり得る)。私は犯人が安倍氏への政治的怨恨から犯行に及んだならば、そうであると主張するように思う。隠す必要はないと思うのだ。が、八幡氏は「政治的テロは政治目的でないことを偽装するのが普通」なのだそうだ。

私もこれまで世界中で起きた無数の政治テロ事件を全部把握しているわけではないので、なかには、八幡氏が仰るように「政治目的でないことを偽装」する例もあったはずだ。また、どれほどの事例があれば「偽装するのが普通」となるのか分からないが、近現代において、日本で起きた政治テロを見ていけば、政治テロ犯が自らの犯行を「政治目的でない」と偽装した例はそれほど多いとは思えない。

例えば、畏れ多くも摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃しようとした「虎ノ門事件」(1923年)の難波大助は、裁判の場において、政治的動機はなかった、別の動機だったとは述べていない。日本社会党の党首・浅沼稲次郎を刺殺(1960年)した少年・山口二矢も、懐には「斬奸状」を忍ばし、そこには「汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている」から天誅をくだすと書かれてあった。これも、政治テロであることを偽装してはいない。

また、謎に包まれた未解決事件ではあるが「赤報隊事件」(1987年、赤報隊を名乗る犯人が朝日新聞記者殺害)でも、犯人と思われる者は、複数の犯行声明を送りつけている。政治的動機はないと偽装などしていない。

彼ら政治テロ犯は、ある意味、自分の生命や人生を賭けてテロを実行しようとしているのだ。自らの「熱情」を理解して欲しい、他者に知って欲しいという心理が働くので、私はかえって、政治テロ犯は「政治目的でないことを偽装しない」と考えている。もちろん、私は、今回の安倍元首相の銃撃事件を含めて、全てのテロ行為に断固として反対するものであるし、そのテロを教唆することも、当たり前だが、容認することはできない。

八幡氏は私の考えを「テロ教唆容認論」だとするが、とんでもない勘違いである。