政教分離の「9条化」を懸念する

SNSなどの進化によって、誰もが政治的議論に参加できるようになった。それ自体は良いことだが、俗説めいたものがあたかも無二の正論のように扱われることには危惧を覚える。こうした風潮は、反対する意見を「極右」「ナチ」などと一方的に罵り断罪することの肯定にもつながっているように思われる。

れいわ新撰組所属の衆議院議員・多ヶ谷亮氏やタレントのフィフィ女史がこんなツイートをしている。

こうした有名人のコメントに賛同する意見も多数見受けられるが、多ケ谷氏のいう「タブー無き政教分離法案」なるものが、私には想像できない。フィフィ女史は「政府による政教分離の法解釈捻じ曲げ」を指摘するが、いったい何を指しているのだろうか。

「国家(あるいは政府/政治/政治家)と宗教とが一切関わってはならない」とした場合の弊害は、拙稿「誤解を招く「政教分離」」で述べたとおりで、文化財としての寺社・教会建築の保護、公園などでの祭りや盆踊りもできなくなる。自治体主催の文化財や人物の展示に神社や宗教家を含めることも違反とされよう(実際にそのような裁判を起こした例がある)。

いま「政教分離」を叫んでいる人々は、おそらく上述のような関係は考慮しておらず、選挙に関わる支持・支援活動や政治献金を問題にしているのであろう。言うは易しであるが、宗教団体が政治に関与しうる度合いについては先述の拙稿でも検討したので、ここでは詳述しない。

また、布教や献金の方法に問題があるとされる宗教団体との関係については、宗教団体であるか否かではなく「社会的に問題のある団体」であるかどうかを検討したうえで対応を考えるべきだろう(拙稿「「社会通念に反する団体」との関係を総点検せよ:カズレーザー氏の発言によせて」参照)。自民党をはじめとするすべての政党が暴力団・悪徳企業・宗教詐欺集団を含む反社会的団体との関係を一掃すべきなのは言うまでもない。

私が懸念するのは、「政教分離」という言葉が一人歩きして、「国家(あるいは政府/政治/政治家)と宗教とが一切関わってはならないとする原則」であり、また「目指すべき理想」であるかのように受け止められることである。政教分離を「国家と宗教との厳格な分離」と理解する故・芦部信喜教授も「国家と宗教との関わり合いを一切排除する趣旨ではない」とされ、「国家と宗教との結びつきがいかなる場合に、どの程度まで許されるか」と論じておられる(『憲法』第六版)。

憲法9条が平和を守ってきた」と考える人は(おそらく漸減傾向だろうが)一定数存在する。しかし9条があろうとなかろうと、ある国の平和は国際情勢に左右されるのであって「9条さえあれば平和が守られる」ということにはならない。それにも関わらず、9条の有無が平和と戦争との分水嶺であるかのように主張する声は少なくない。「9条」が一種のスローガンと化し、それを守るか否かで「平和主義者」と「軍国主義者」とが色分けされているようにさえ思われる。

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今回の事件に関連して「政教分離の徹底を!」と叫ぶ声が上がる情景が、私には「9条守れ」と重なって見える。「政教分離」という言葉がスローガンのように叫ばれる。しかし、多くの人にとってはその意味さえ明確ではない。

たしかに「政治/国家と宗教」を完全に分離すれば、政治家が悪徳宗教から献金を受けたり、広告塔にされたりという関係はなくなる。しかし、それは非現実的であり、また望ましいことでもない。優遇税制などの宗教法人保護に反対する意見も多いが、納税可能な巨大教団は生き残り、悪質な教団は信者からの搾取を強めるだけ。中小の神社や寺院が壊滅し、祭りや行事といった地域文化が消滅する結果に終わるだろう。

「政教分離制」は国家が特定の宗教・宗派と結びつくことを禁止するもので、信教の自由を保護するための手段である。信教の自由が保護されてさえいれば、国教制(イギリスなど)や公認教制(ドイツなど)でも大きな問題はない。これらの国々は「政教分離制」ではないが「広義の政教分離」(百地章教授)が実現されているのである。

「政教分離」の語感から「政治/政党と宗教とが一切関わらないこと」と誤解するのも無理はない。明治時代の法政家・井上毅は、アメリカの宗教制度を「宗教自由の制」と呼んで「政府は宗教の権を掌有せず、また宗教を保庇せず、唯々之を監察して公安を妨げざらしむに止まること」と定義しつつ、単なる宗教放任ではないことも理解していた。制度の目的を考えれば、むしろ「宗教自由制」のほうが適切な訳語であるようにさえ思われる。

政党やメディアが国民をあおり立て、「9条守れ」と同じように「政教分離」のプラカードが氾濫するのは、冷静な議論の妨げになるだけだ。「政教分離」の理解促進とともに、誤解を招きにくい用語がないものかと思案するところである。