「慶長の役」と呼ばれている、第二次朝鮮派兵について、現代の人たちは、日本軍は苦戦して、半島の南部に留まり、李舜臣の活躍で制海権も取れず、秀吉の死と同時に退いて海外出兵は懲り、朝鮮は亡国の危機から救われ、明は宗主国としての面目を守ったと思っておられる方が多いそうなのですが、そんなことではありません。
しかし、明国の方では秀吉が死んだので幸運にも亡国の危機から脱したと思っておられたようなのでございます。
そのあたりを、経緯を横で見ていた寧々さんの眼からおさらいします(『令和太閤記 寧々の戦国日記』から抜粋再編成)
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小西行長と明の沈惟敬は、モンゴルのアルタン・ハーン(1982年死去)と明が合意した状況を参考に、明は秀吉を日本国王とし、日本軍は朝鮮の一部に駐留し、王子を日本に来させ、領土の割譲や貿易は将来の問題にしようという解決でまとめたかったわけですが、朝鮮は同意しないし、明使節内でも意見がまとまらず決裂したのです。いずれにせよ、沈惟敬は帰国後、死罪にされます。
ここで秀吉は、標的を明ではなく、朝鮮に向けることにしました。つまり、明の皇帝から冊封されたことを逆手に取り、せっかく明の皇帝が朝鮮に対して秀吉に従うように命じたのに、王子を送らないなど非礼であるという論理です。
しかし、この年は、スペインから漂着したサン・フェリペ号事件の処理や、地震の後始末で遅れ、10月27日には慶長元年となりました。そして、慶長2年(1597年)元旦には、朝鮮半島への再出兵が命令されました(ただし、釜山には宗義智、加徳城には島津忠恒がそのまま留まっておりました)。総大将は小早川秀秋です。
朝鮮だけを相手にして明には中立を守らせようと行長はしましたが、明の大軍が南下し、忠清道を北上して漢城に迫っていた黒田長政は、漢城の手前で明の主力と遭遇し、引き返して海岸部に堅固な5つの城を築いて守りに力を注ぎました。
前回、兵站戦が延びて失敗したことに懲りて、日本軍は南部をしっかり固め、目的も明国征服から、朝鮮王国を屈服させ、半島南部の統治体制を固めようとしたのです。
海上では7月半ばに、「漆川梁海戦」で敵を全滅させました。また、穀倉地帯である全羅道の確保に努めました。ここはかつて、任那といって日本領だった土地でございます。農民に好条件で投降を薦め、領土として支配する体制をつくっていきました。
9月には李舜臣の水軍が、釜山から西に向かう日本水軍を阻もうとした鳴梁海戦が起こり、李舜臣が、村上水軍の来島通総を攻め戦死させましたが(ただ一人の戦死した大名です)、日本水軍はそのまま全羅道西岸まで進出しました。
12月になると、明軍は約5万の大軍を持って進軍を開始し、釜山の東に築城中だった蔚山城を総攻撃し、加藤清正が蔚山城に入り、浅野幸長と共に守備しましたが、城は未完成でしたし、食料もなく大苦戦でした。それでも、翌年(1598年)の1月、約1万3千人の援軍が到来、包囲中の明軍を撃退し、明軍は2万人以上の死者を出しました。
ただ、この奮戦を石田三成や小西行長に近い軍見付が批判的に秀吉に報告したので対立が深まります。最低限の要求が通ったら和平に持ち込みたい三成や行長と、交渉を壊し戦線を拡大したい清正たちとの思惑が衝突したのです。
こののち、日本軍は、各地で城の守りを固め、兵糧や武器も大量に運び込んでいました。翌年に攻勢をかけ漢城を攻略するための準備で、主力の一部は再出兵に備え、一旦帰国しています。
そうしたなかで、8月に秀吉が死んでしまいます。その死は隠されるなか、明・朝鮮の総勢10万以上の大軍勢が9月には蔚山に約3万人の軍勢で攻撃を行いますが、加藤清正らが奮戦したおかげで撤退します。
島津義弘が守る慶尚南道西部の泗川城では、20万という明の大軍が城を包囲しようとしますが、これを引き付けての一斉掃射で明軍は蜂の巣にされます。このとき日本軍は地雷を使ったといわれてます。南西部の順天城は、1万3千の兵で小西行長が守っていましたが、これに水陸から総攻撃がかけられました。
ところが、優勢な日本軍が撤退の準備をしているのを見て、朝鮮側も秀吉が死んだことを察知し、李舜臣が率いる朝鮮水軍が撤退阻止に動き、露梁海戦が起こりますが、李舜臣も戦死し、日本側の撤収は支障なく行われました。
李舜臣という人は、韓国の国民的な英雄です。ソウルのメインストリートにあたる世宗大路に巨大な銅像がありますが、一貫して対馬海峡の制海権は日本が握っていましたし、最後は目的を達成できずに戦死していますので、なぜ名将なのかよくわかりません。
秀吉の死んだあと、五大老は、朝鮮からの撤兵を決めましたが、実際の差配を見事にしたのは、三成です。三成の綿密な計画なくしては、多くの武将たちも無事に帰ることはできなかったでしょうから、命の恩人のはずですが、朝鮮から命からがら逃げて帰ってきた大名たちは、それまで軍監として厳しい勤務評定をし、また、いささか尊大な態度で諸将を迎えた三成にかえって怒りをぶつけ、これが関ケ原の戦いの遠因になります。
この撤兵は、秀吉の死による混乱のためにいったん兵を引いただけで、国内が落ち着いたら、また、再出兵するはずでした。関ケ原の戦いの原因になった会津攻めも、家康が朝鮮再出兵のための相談をするので上洛するように、上杉景勝にいったのを拒否したことからおきたものです。
しかし、関ケ原の戦いの混乱もあって、家康は朝鮮にいつでも第3次出兵をすると脅しつつ、朝鮮通信使の派遣という、日本から見たら一種の朝貢をさせるということで和平がまとまりました。
ただ、家康もそれだけでは評判を落とすと思ったのか、かわりに、島津が琉球国を占領したいというのを受け入れていたのです。
そして、明では朝鮮に満洲の守備軍を投入し、しかも、大損害を出したので、そのあいだに女真族のヌルハチが台頭し後金を建て、二代目のホンタイジのときにはモンゴルも服従させて清国を建て、朝鮮に攻め入って服属させました(朝鮮は明に大恩があるはずですがあっさり清に降伏しました)。三代目の順治帝のときに、李自成の乱で明の皇帝が自害した後に山海関を越えて北京に入りました。
そう言う意味では、秀吉の戦争は、明を滅ぼしたともいえるのです。そして、徳川幕府の日本も、狩猟民族からでた清も海上貿易には余り興味がなかったので、日中両国は二世紀も平和というか、没交渉のままになりました。
平和だったのは確かですが、日中両国が眠っている間に、西洋諸国は産業革命やフランス革命で富国強兵に成功し、アヘン戦争と黒船来寇で一気に植民地化の危機になってしまうのです。
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