『令和太閤記 寧々の戦国日記』では、経営者・秀吉による人事とか大名配置の見事さを論じ、それを寧々の眼から少し客観的に紹介しています。
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天正18年(1590年)の小田原征伐の最中に、德川家康さまに、関東への移封が伝えらました。家康さまにとっては青天の霹靂だったわけではございません。
家康さまもこの転封は願ったり叶ったりだったのでございます。家康さまにとっては、先祖の地と自分で称している上野国や、源頼朝さまが幕府を開いた鎌倉の主になるのは、大歓迎でした。
土豪出身の三河武士を、それぞれの出身地から切り離すことは好都合だったのです。家臣の方たちは骨の髄まで三河人で、大反対でした。
家康さまは、内心の喜びを隠して残念だというような顔をしながら、「陸奥の国に移ろうとも百万石の領地があればいかようにでも生きていける」と、少し前向きな慰めも演出して従わせました。
この時代、それぞれの大名方も領国を中央集権化したかったのです。とくに厄介だったのは、いわば兼業農家として先祖代々の土地に縛り付けられている家臣たちを土地から切り離して、フルタイムで働ける官僚・軍人集団にすることでございました。また、地元にいる限りは、戦国大名も何世代か前には家臣たちと横並びの土豪だったのを上下関係にしたかったのです。
そのためには、引越ししたほうが組織改革をやりやすかったのです。家臣間の序列も好きなように変える機会でもありました。秀吉は、サービス精神旺盛に、家臣たちの知行や配置まで家康に指示しましたが、それは、家康が仕方なく従うしかないというようにしてやりやすくするためでした。
三河出身でない井伊直政に高崎12万石を与えて筆頭にし、本多忠勝に大多喜、榊原康政に館林で10万石。本来の筆頭の酒井忠政は、隠居していたので息子に下総国臼井に3万7,000石ですませました。
現代でも、地方発祥の会社が、本社を東京や大阪に移すことで、大企業にふさわしい組織へ変えるチャンスにするのと同じでございます。
ただ、江戸を本拠にするように秀吉から下知されたときには、家康さまは困り果てられたようでございます。
大きな川の河口に近く(当時は隅田川が利根川本流)、良い港になる場所に都市を築くのは、秀吉の趣味で家康さまの趣味には合わなかったのでございます。家康さまは、海がお好きでないし、武士が商人たちと一緒に住んで軟弱になるのが嫌でございました。
大坂がその典型ですが、県庁所在地だけをとっても、福岡・大分・熊本・鹿児島・広島・松江・松山・高松・徳島・高知・和歌山・徳島・大津・津・金沢・富山・福島・盛岡などが、秀吉やその系統の大名たちが建設したり、大改造した城下町でございました。
これらの町と秀吉の関係は、また別の機会に。
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