個人主義から全体主義を目指す人が増えた日本

倉沢 良弦

立憲民主党をはじめとする現在の野党は、安倍元総理の国葬儀について、まるで国家が国民を統制している全体主義国家になってしまったかのような発言を繰り返している。

前稿に触れた通り、彼らの価値観には、国家が打ち出すもの、決定するものに国民は従うべしと言う価値観があるから、内閣が閣議決定したことには法的根拠が必要との観念があるようだ。それが根底にあるから、仕切りに国葬儀は法的根拠が無いと言い続けるのだろう。

もちろん、彼らはどのようなことであれ政府が打ち出す施策について、常に政局に持ち込むことを念頭に発言し、行動している。彼らの論理は、政権を奪取したいなどと言った野心は無く、常に与党に文句を言い続けることで、少ない支持者の欲求を満足させながら与党とのバーターによる議席の確保「しか」出来ることは無い。

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それが彼らに突きつけられた現実であり、リベラルを自認しながら、自分達の拠って立つ場所は国会議員や地方議員という権力者側であり、彼らの論理と価値観を民衆に押し付け要としていると感じる。

こう書けば、野党議員は自分達こそがリベラルな政策を進めていると言いたくなるだろうが、そもそも、リベラルならどうして憲法改正に躊躇するのだろう? 時代に合わせて応変自在な国家を建設することが、国家と国民のためになるはずだ。ところが、80年も前の価値観を金科玉条として、その当時の価値観で作られた日本国憲法に固執する。これは明らかに保守的な価値観だ。

リベラル政党と言われている彼らは、何年経ってもその矛盾を克服できていない。

ましてや今回の国葬儀に対する法的根拠を求める、或いは内閣が打ち出した国葬儀を国家が国民を統制するかのような表現に持っていきたい姿勢は、国民に大きな誤解を与える以外の何ものでもない。更に便乗したマスコミと共に、日本の憲政史上稀に見る安倍元総理暗殺事件の検討外れな批判には、違和感しかない。

ここで今の日本がここまで世界の中でも類まれな技術立国、平和な社会、経済発展に合わせた世界への貢献を果たしてきた背景を考えてみると、日本人の中にある徹底した個人主義にあると、私は考えている。

個人主義と言っても個人がそれぞれ手前勝手なことを好きにやると言うことではなく、日本人の中に潜在的にある職人気質がそれだ。誰かに強制されたわけでも、強要されたわけでもなく。自分がより良い物、より良い仕事をしようと決め、愚直にその道を歩き続ける。私は、戦国時代の昔から、そんな殆ど日本人「だけ」が有しているような生きる姿勢は、各国にもあることは承知しているが、それが社会のあらゆる階層に普遍的な価値観として存在している国を見たことがない。

つまり、これは各人の非常に個人的な内心に関わる問題であり、それぞれが独自に希求する人生観として持つ物であって、それを社会を構成する要件ではなく、過去の先人が政治なら政治、経済なら経済の世界でそれぞれの役割を果たしてきたが故の日本社会であり、先人一人一人が探求できる社会を作り上げてきたのが今の日本であると考えている。

その個人主義は、頑固とか伝統とかで表現されることかもしれない。

しかし、少なくとも、世界が日本と日本人の持つ価値観を認めてきたことも事実だろう。曰く、日本製品の品質の高さと、日本人の気質を礼賛する点に、表れている。

では、それら日本人の価値観に対して、今の野党が進めようとしているのは、まるで日本人を単一の政治思想が強制する価値観で埋め尽くし、それがあたかも平等であるかのような印象を持たせようとしているものに感じる。つまり、社会のマイノリティに対する過剰なまでの権利を擁護する姿勢がそれだ。特に昭和の時代を知る人たちにとって、最大の違和感になっているのが、差別意識の助長だ。

被差別者の擁護は確かに大事だし、政治がそのような社会を否定することも大事だ。ただ、あまりに過剰な権利保護は、逆差別を生む端緒になるだろう。日本の保守層が持つ違和感や未来に対しての懸念の多くはそのような、マイノリティへの過剰なまでの権利保護を求める野党の姿勢にある。

社会に対する「生きやすさ」は、最低限のルールを法律で定めることは必須としても、そこには、相互扶助の観念が存在しなければならない。

今のアメリカの分断の最大の要因は、マイノリティへの過剰なまでの権利保護が原因だ。確かに移民によって作られてきたアメリカ社会に、人種差別や資本主義が生み出した格差社会もあるだろう。ただ、社会保障制度のような最低限の国民保護のルール以上のものを法律によって作り出すことは、逆差別の温床になることを今のアメリカは証明している。そこから生まれるのは、分断以外の何ものでもない。マイノリティが大手を振って幅を効かせ、自分たちは法律で守られた存在だと振る舞うやり方は、マジョリティを圧迫する。

アメリカや日本という国家であっても、世界から見れば一つのコミュニティでしかない。そのコミュニティ内でそれぞれが自分たちの正義を振り翳せば、分断が生まれるに決まっている。

今の日本の野党は、日本社会の根底にある良い意味の個人主義を否定し、全てを単一化されたルールに押し込もうとする全体主義に向かっている気がしてならない。これはとても危険なことであり、民主主義や人権を否定する文明の退化に繋がりかねない。個人の内心や生きがいや大切なものに、他者は踏み込むべきではないし、そこになんらかの価値観を押し付けてはならない。だからこそ、今ある自分の有り様に心血を注いできたのが、日本の個人主義ではなかったか?

ところが野党の進めるマイノリティへの過剰な権利保護は、人間は個々に違うという当たり前の価値観に対する毀損を狙っているように思う。つまり、誰彼関係なく、皆を同じ枠に収めようとするやり方だ。これは一種の共産主義であり、個々人が自由に生きるあり方を根底から否定するものだ。

これが今の国葬儀論争の根底にある。

普通なら、国葬儀が打ち出されたとしてもそれを国家が国民を何らなの恣意的な意図を持って強制するとは考えない。ところが、野党議員とその支持者は国家が何かを打ち出したら、それはそのまま国民への何らかの強制性を持つと考えている。それは彼らの価値観の中に、国家は国民を強制的に行動制限できると考えているからだ。言い換えれば、彼らが政権を獲ると、当然だがそのような国にしようとする表れだ。

私は、ここに強烈で確固たる決意を有する共産主義者の意図を感じる。

しかも、彼らはマイノリティの権利保護の美名で、非正規雇用者やシングルマザー家庭、在日外国人、LGBTを囲い込もうとする。日本社会におけるマジョリティを傍に置いて、マイノリティの価値観と求めるものを与え続けることは行き過ぎたマイノリティ保護であり、過剰な権利保護に繋がるだろう。

私はそれを完全否定はしない。日本は、先の大戦以後、それらマイノリティを取り残さない社会の実現に邁進してきたからこその今の日本の社会保障制度があると考えている。しかし、それが行き過ぎた世界は、全体主義化となり、行く末は共産主義化に向かう。

猛烈な格差社会と特権階級、そして、個人の能力とは無関係の平坦な社会になり、その結果、旧ソヴィエト連邦や東欧の社会主義国家と同じ道を辿るだろう。

これを極論と見るか否かは、読者の判断だが、今のマスコミと連動した野党の原理主義的な動きを見ていると、彼らの目的をそこに見出すし、その過激な主張には将来世代への不安しかない。将来世代に何を残せるか?は、今の時代を生きる我々の大きな課題であり責任だ。もちろん、将来世代には知恵を持つ人が現れ、社会はいかにあるべきか?を問い続けることになるだろうから、何も心配する必要はないが・・・

ただ、少なくとも今を生きる我々が、危険なことは危険だと言っておかなければ、我々が責任を果たしたとは言えないだろう。

繰り返すが、私も差別はあってはならないし、差別は無くさなければならないと考えている。ただ、マイノリティに対して法的保護を加えるような過剰なまでの権利保護は、逆差別になってしまうし、少数者が日本社会を動かす、由々しき国になりかねないと警告しているのだ。

その意味で、今の野党が言ったり、やったりしてることには、危うさしか感じられない。

倉沢 良弦
大学卒業後、20年間のNPO法人勤務を経て独立。個人事業主と会社経営を並行しながら、工業製品の営業、商品開発、企業間マッチング事業を行なってきた。昨年、自身が手がける事業を現在の会社に統合。個人サイトのコラムやブログは企業経営とは別のペンネームで活動中。