金沢・仙台・福岡・鹿児島・徳島になぜ天守閣がないのか

アパ・グループの元谷外志雄会長が主宰されている勉強会で「秀吉・寧々夫妻と前田利家・まつ夫妻の友情」という講演をするために金沢に行ってきた。

長い講演よりミニ講演をいくつも聴いた方がためになるという会長の発想で、ほかの人の講演も聴いたのが、滅多に私は聞かない内容だったので面白かった。

私が話した内容は「令和太閤記 寧々の戦国日記」からのもので、その一部は昨日「前田利家とまつと秀吉夫妻&加賀藩についての雑学」で書いたことだが、もうひとつ、「秀吉がいま日本の政治家だったら何をしただろうか」という話もしたのだが、それは、小名木善行さんとの対談の第二部で扱ったので、今週のどこかで公開できると思う。

以上はイントロで、今日の話は、ついでに久し振りに金沢城を見学してきた話である。もともと、本願寺の尾山御坊があり、それを佐久間盛政が居城とし、賤ヶ岳の戦いのあとは、前田利家が居城として、本格的な豊臣風の城にした。

城跡には、廃藩置県後、陸軍第9師団司令部が金沢城址に置かれ、1949年(昭和24年)には、金沢大学の丸の内キャンパスして使われるようになった。しかし、1995年(平成7年)に- 金沢大学が郊外移転したので、1996年(平成8年)から金沢城址公園として整備が始まった。

2001年(平成13年)に菱櫓・橋爪門・橋爪門続櫓・五十間長屋が復元され、さらに、大規模な復元が進められている。

私も訪れたのは10数年ぶりだが、質の高い工事でいまや日本の城跡のなかで、もっとも価値の高いものになってきた。

しかし、この金沢城には天守閣がない。関ヶ原の戦いの二年後に焼けてしまってから再建されていないのである。しばしば、幕府に遠慮してといわれるのだが、そういう理由ならなんで、天守閣がある城とない城があるのか説明がつかない。

そこで、私の推測だが、天守閣のない城は、だいたい、天守閣をつくっても見栄えがしないことが多い。天守閣は、軍事的にはあまり意味がなく、城下の人々に城の偉容を誇示するために建てるのだ。

大手門からまっすぐの道でのぼって行った先にあった安土城などその典型だ。しかし、地形によっては、あまり立派にみえないことも多い。小高い丘の上にある徳島城などその典型で、鯱の門から見ると、二の丸が崖の上にあって、本丸はその左奥なので見えない。だから、二の丸に天守代用の三層櫓を建てた。

金沢城は、尾根に沿って城下町が営まれ、そのいちばん奥に本丸がある。本丸の背後には深い堀が掘られて、兼六園がその向こうにあり、さらに山地に続いている。

しかも、傾斜はかなり急なので、三の丸と二の丸の標高差はかなりある。そこに、河北門があって見事な菱櫓がある。藩主ははじめ本丸に住んでいたのだが、その本丸の真ん中に天守はあった。これだと、御殿の建物のひとつだったわけで、内部で生活も可能だったのだろう。城下からはそもそもほとんど見えなかったし、見えたとしても距離があるので小さくしか見えない。

しかし、本丸御殿は手狭なので、二の丸御殿に引っ越した。そうなると、二の丸御殿から立派にみえるように、御殿から見上げたところの石垣の上に三層櫓が築かれて、借景になった。しかし、庶民が目にするのは、ぜいぜい、菱櫓までだったのではないか。

仙台の青葉城も本丸は崖の上で、そこに大規模な御殿があって、清水の舞台のような懸崖作りになっていて、非常に遠くからも見えたはずだ。天守台は本丸の奥にあるが、麓からは見えそうもない。

福岡城は、北側の台地からゆるやかに下がる丘陵に築かれ、西には大濠公園、南は海、東は那珂川だが、北側が弱いので入念に防衛線を重ねている。天守台はあるのだが、建てたかどうかも分からない。高い天守を建てると北の大地から、大砲の砲撃の目印になるだけなので、思いとどまったのかもしれない。

鹿児島城はあまり防備を重点にした城でない、海からも近く、城下町の発展を優先に考え、後ろには険しい城山があるが、名前に反してとくに防備はなく、前面も簡単な堀と石垣しかない。石垣と城門が立派ならそれ藩主の威厳は示せると考えたのだろうか。