英国王朝交代史②:チューダー朝からスチュアート朝へ

薔薇戦争とシャークスピア劇の主人公たち

イングランドでは、百年戦争(1337~1453年)が終息したのち、いずれもプランタジネット家の系統に属するランカスター家とヨーク家のあいだで薔薇戦争(1455~1485年)の時代があった。

シェークスピアの「リチャード三世」は、文豪の最高傑作の一つと言われるが、その遺体は行方不明になっていた。ところが、2012年になってレスター市内の駐車場で発見された人骨から採取したDNAが、姉アン・オブ・ヨークの子孫とされているカナダ人の家具商、マイケル・イブセンのDNAと一致した。頭部などの外傷も史書にある戦死の描写と一致するのでリチャード3世の遺骨と確認された。

百年戦争を始めたエドワード3世の孫でボルドー育ちのリチャード2世には、跡継ぎがいなかったので、従兄弟やその子が候補となった。

ランカスター家のヘンリー4世がリチャード2世を廃して即位した。そして、その子と孫がジャンヌダルクにフランス王としての即位を邪魔されたヘンリー5世と6世である。

ところが、ヘンリー6世は祖父のフランス王シャルル6世と同じように周期的に精神に異常を来したので、ヨーク家の当主であるエドワード4世が王位に就いた。だが、ヘンリー6世は正気を取り戻し、王妃のマーガレット(仏語:マルグリッド・ダンジュー)の奮闘もあっていったんは復位したが、戦いに敗れてエドワード4世が再登板した。その子のエドワード5世は叔父のリチャード3世にロンドン塔に幽閉され、やがて行方不明となり王位を奪われた。

ここで登場したのが、テューダー家のヘンリー7世である。ヘンリーの祖父であるオウエンはウェールズ貴族だったが、ヘンリー5世の未亡人でフランス王女のキャサリンの秘書役として仕えていたうちに愛人関係になり結婚した。

彼らの子のエドマンはヘンリー4世の異母弟の孫娘であるマーガレットと結婚し、生まれたのがヘンリー7世である。

この戦争では、身代金を取るとかでなく、互いに相手の系統を根絶やしにしようという姿勢だったので、多くの大貴族が滅びた。ただし、一般市民にはそれほど大きな犠牲はなかったのは幸いだった。

ヘンリー8世と六人の王妃たち

ヘンリー8世は、テューダー朝の2代目である。それまでの騎士物語的な王様たちより、実際的で進取の気風に飛んでいたのは、ノルマン系フランス人のプランタジネット系の国王たちと違うウェールズ人としての気質もあったからか。

ヘンリー8世
出典:Wikipedia

ヘンリー8世は、次男だったが、早く死んだ兄の王太子アーサーの妃でスペインのイサベル女王とフェルナンド2世の末娘キャサリン・オブ・アラゴンと結婚した。

ヘンリーは熱烈に王子の誕生を望んだ。ところが、キャサリンは流産を繰り返し、長女メアリーを得ただけだった。そこで、愛人のアン・ブリーンと結婚するために離婚した。

もともと、ヘンリー8世は宗教改革にあっても、ローマ教会の側に立っていたのであるが、ローマ教皇も普通なら融通をきかせるところ、皇帝シャルルカンの姉だというので頑なだった。

そこで、仕方なくヘンリー8世は英国国教会を創立した。そのアンが生んだのがのちのエリザベス女王だが、王女だったのでがっかりしたのか姦通の疑いをかけて処刑し、その後も、4人の妃を迎えた。

そのうち王子を生んだのは、3番目の妃だったジェーン・シーモアで、これがエドワード6世である。

ヘンリー8世が死んだあとは、エドワードが即位したが、15歳で死んで、姉のメアリー1世が即位し、スペインの王太子だったのちのフェリペ2世と結婚したが、子どもなないまま死んだ。

ヘンリー8世は文学、音楽、美術から科学にまで幅広い知識を持っていた。また、経済をよく理解し、海軍を強化し海運を奨励し、羊を飼うために進みすぎた囲い込み(エンクロージャー)にも適切なブレーキをかけた。

エリザベス女王は意外に堅実で臆病な女性だった

どうしてエリザベスが一生にわたって独身で「処女王」のままだったのかは、謎であるが、肉体的に出産に耐えられないと怖れていたのか、姉のメアリーがスペインのフェリペ2世(皇太子時代)との結婚で難しい立場に立ったのを繰り返したくないという判断とみるべきだろう。

エリザベス1世
出典:Wikipeida

スペインの新大陸との貿易独占に海賊行為を容認するという方法で対抗していたが、1588年にスペインの無敵艦隊に勝って海洋帝国がスタートした。1600年に東インド会社を創設、ローリーによるバージニア植民地への進出を図るなど、女王がイニシアティブを取ったわけでないが、新しい動きに手を差し伸べた。

スコットランドのメアリー女王が、亡命して来たのに、イギリス王位を狙った陰謀にかかわったとして刑死させた。

いずれにせよ、「私ほど臣下を愛する国王はいないでしょう、何者も私の愛と比べるべくもありません。私の前にある宝石ほど価値のある宝石はありません。それは貴方達の愛です」という彼女の言葉のとおり、彼女が結婚もせず、イギリスという国を夫としたといってよいほどであったことが、国民から大きな信頼を持たれた。

英国のエリザベス女王と争って処刑されたスコットランドの美しき女王メアリー・ステュアートは、若いころフランス王妃だった。メアリーは父王が没する6日前に生まれ、ただちにスコットランド女王になったが、母后はメアリーを海路フランスに送り出した。そこで美しく聡明に育ったメアリー(仏語マリー)は、フランソワ2世の妃となったが、フランソワ2世は、在位わずか1年半にして重病に陥り、医師団への脅迫も祈祷行列も功を奏さず、2歳年上のメアリーを残してあの世に旅立った。

フランス王妃としての地位を失ったメアリーは、スコットランド女王としての仕事に就くために霧深いエジンバラに帰った。ここで、メアリーはスコットランド貴族のダーンリーと再婚してのちの英国王ジェームズ1世を生んだのだが、イタリア人の愛人をつくり、それを暗殺され、今度はダーンリーが暗殺され、ボズウェルという貴族と結婚したが反乱にあってイングランドのエリザベス女王のもとに亡命した。

ところが、このメアリーは血統から言うと英国王ヘンリー7世の子孫だったので筆頭の王位継承権者だった。しかも、エリザベスが嫡出子といえるかは両親の結婚時期からして微妙であるので、亡命者のはずのメアリーはエリザベス女王を追い落とす陰謀に手を染め、死刑にされた。

一方、子であるジェームスはプロテスタントとして育てられ、母とは没交渉のまま、冷徹な政治家としてスコットランドにおける権力を確立し、エリザベスの死とともにイングランド王を兼ねることになった。ステュアート朝である。

ジェームズ1世は、「国王の権力は神から与えられた神聖不可侵なものであり、反抗は許されない」という「王権神授説」を奉じて議会と対立し、イングランド国教会の立場からピューリタンを迫害した。

その子のチャールズ1世(在位1625~49年)は、フランスのアンリ4世の王女を妃に迎えたこともあってより強硬姿勢を貫いたので、議会との対立が深刻となり、ピューリタン革命が起きた。

チャールズ1世は、スコットランドの反乱に対処するために議会を招集したが、対立は深まり、1642年にオリバー・クロムウェルによるピューリタン革命が勃発し、チャールズ1世は死刑にされた。

※この原稿は、「日本人のための英仏独三国志」からの抜粋短縮版です。英仏独の王家の三つ巴の興亡を描いたもので、「日本人のための日中韓興亡史」はそれと同じ手法で日中韓の歴史を立体的に描きました。地域史の新しい試みです。