政治への「信頼と共感」を得るために

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10月4日6時に配信された日テレNEWSでは、「2021年に自民党の総裁選挙に立候補した際、当時の菅政権の支持率低迷を背景に、『信なくば立たず』と述べ、国民からの『信頼』の重要性を説いた岸田首相だが、1年が経ち、自らへの『信頼』が揺らいでいる」と締めくくられた。

所信表明演説の「結語」

他者を「信じて頼る」、ないしは他者の意見に「その通りだと感じる」条件とは何か。

日本語の語感では、信頼は主としてその人の言動と行動が一致することで得られ、共感は感情レベルの作用の結果となる。だから巷の政治不信は、与野党問わず政治家の言動と行動のずれによることが多い。たとえば出処進退の弁明と行動が乖離すると、一気に信頼度が低下してしまう。その意味で、旧「統一教会」がらみで後出しジャンケンをする複数の政治家に信頼が増すことはあり得ない。もちろん共感できるところもなく、すべてが政治不信の上乗せになるだけである。

このような議員や大臣を抱えたまま「所信表明演説」をした岸田首相の心中には、「演説の結語」でのべられた「信頼と共感」という文字が黒々と刻まれていたのだろうか。

「所信表明演説」は「信頼と共感」を生みだすか

大多数の日本人は、首相に会って話すという経験ができない。私も首相をテレビで拝見したり、新聞記事や雑誌記事を読む程度でしか存じ上げない。「国葬」を決めたり、旧「統一教会」との関係遮断という発言を聞いたり、国連での演説要旨を読んで、「信頼と共感」の判断材料にする程度である。その素材の一つに「所信表明演説」も位置づけられる。

首相就任からちょうど1年後になされた「所信表明演説」は、13の節に分かれて新聞に掲載された(『北海道新聞』10月4日付)。ちなみに「北海道新聞社説」は「信頼回復の道筋見えぬ」と書いた。

しかしここでは、「信頼と共感」を高めるにはどのような表現が望ましいかを考えてみたい。素材は「所信表明演説」全文であり、首相という政治家の地位に固有の文章表現が満載されている。

文章表現から点検する

最初に演説全文の文章の述語を10通りに分類する。すべてが首相としての所信表明であり、決意の開陳であり、表1に10通りの表現形式を示して使用頻度を付加する。

なお、主語は文脈からすべてが岸田首相であると判断できる。

表1 岸田首相「所信表明演説」(2022年)の述語頻度

文字数は約8000字だから、手書き時代の400字詰め原稿用紙ならば20枚である。20枚のうちこのような述語が46回使われていたことは、1枚の400字原稿で2.3回の使用頻度になる。首相以外の文章ではまずあり得ない。

よく使われた述語は4種類

表1から分かるように、主語の私(岸田首相)を受けた述語は、「取り組みます」と「進めていきます」が断然多く、両者合計で約70%になった。他には「加速していきます」と「目指します」とで9回だから、これが約20%になる。

要するに、主語である私(岸田首相)は、4通りの述語を使い分けて、「所信表明」し、当面の事態への意見を述べられたことになる。

これを読んでどれくらいの国民が「共感する」だろうか。「共感する」には材料が不足しているというのが私の判断である。

何をいつまでにどのように「取り組むのか」

材料不足の事例には事欠かない。たとえば私の経験を通して、「六 成長のための投資と改革」では、「文理の枠を超えて行う、成長分野への大学等の学部再編促進や、若手研究者の育成に向けた支援強化、処遇見直しを通じた教職員の質の向上にも取り組みます」という宣言を取り上げてみよう。

一つには、「成長分野への大学等の学部再編促進」の内容がこれだけでは何も伝わってこないという限界があげられる。ただしすぐ直前に、①イノベーション、②スタートアップ(新興企業)、③GX(グリーントランスフォーメーション)、④DX(デジタルトランスフォーメーション)が例示されているので、この4分野としてもいい。

しかし、社会経済史を学べば、イノベーションは量子・AI(人工知能)、バイオに限定されるものではないことは常識である。さらにこれでは、人文社会科学系列の成果が全く反映されなくなる。

明治期以来、主として国立大学の文学部で細々とつながれてきた日本の倫理学は、100年以上カントの主著の祖述に等しかったが、20世紀後半で「脳死問題」や「臓器移植問題」が社会全体に突き付けられた瞬間に、「時の学問」に変貌した。

医学、看護学、心理学、法学などではこの問題への判断ができないため、どうしても倫理学に期待せざるを得なくなったのである。医療知識や技術の発展、そして医療機器の高性能化というイノベーションに加えて、臓器移植という医療行為の判断基準のイノベーションがそこで発生したことになる。

処遇見直しを通じた教職員の質の向上とは?

人口減少をひき起こす主因の一つである少子化により、児童・生徒・学生の数は急激に減少し始めている。現在、国公立大学が212校、私立大学が606校あり、これに国公立の短大と私立短大が加わり、総数は1000校を超える。受験生の減少により定員割れがますます広がり、学校法人の解散、廃校や学部削減、大学間の生存競争を伴い、合併や吸収が確実に始まる。

大学の専任教員のなかには15年も研究論文を書かず、「教育に打ち込んでいる」と豪語する人がいる。まさしく玉石混淆なのであるが、ここにいわれた「教員の質の向上」とは何を指すのか。「所信表明演説」では全く見当がつかない。教員が発表した論文の総数か、過去5年間の論文数か、レフリー制がしっかりした学会誌の論文の数か、あるいは学会賞の受賞数か、または単著の出版か。

すでに「博士」学位は「質の向上」の判断基準にはなりえない。俗にいう「足の裏の飯粒」であり、「取らないと、気持ちが悪い」程度の肩書にすぎなくなったからである。

2000年前後から大学院大学化が始まってから、我が国では「若手研究者の育成」ができなくなった。何しろ大学院修士課程・博士課程の定員が倍増したのに、逆に専任教員は、「行政改革」=「公務員削減」の等式により、大幅に減らされたのである。30歳前に博士課程を修了して「博士」になっても、公募されるポストはつねに数十倍の競争率がある。それに敗れ、非正規雇用としての「非常勤講師」を掛け持ちせざるを得ない「若手研究者」が激増した。

なぜなら、送る側の定員は倍増したのに、受ける側の正規雇用教員は減少したのだから。これは国公立大学、私立大学を問わず、共通に認められる。

したがって、「演説」での単なる「取り組みます」という決意表明は、現場には決して届かない。「何をいつまでにどのようにするか」のメッセージがないからである。

人への投資は企業のためか

「五 構造的な賃上げ」のなかで、賃上げ、労働移動の円滑化、人への投資の3点が課題とされている。元来「投資」(investment)は「利益や収入を得るためにお金を使うこと」なので、「人への投資」という表現には違和感が残る。たとえばIPS細胞の応用研究でも、「人への投資」ではなく、「専門家集団やその組織への資金提供」のほうが納得できる。

また、「投資」には必ず見返りが期待されるが、「教育」はそうではない。周知のように、英語のeducation、フランス語のéducationはともに「人間の持つ能力を引き出すこと」を語源にもっていて、それを日本では「教育」と訳して使ってきた。

かりに「人への投資」という表現を我慢したとしても、なぜ「構造的な賃上げ」の節で使われるのかの説明が不足している。内容から判断すると、「高いスキルの人材」を増やすことであろうが、「円滑な労働移動条件」として、「学び直し」の別表現なのではないかという疑問も生じる。

学校教育が最優先

この認識の欠陥は、現在全国的にいわれている義務教育の荒廃を無視して、そこへの配慮が皆無に近いところからもうかがえる。なぜなら、全国の小中学校ではすでに2000人もの教員が不足しているからである(週刊東洋経済編集部編、2022)。

人間の基礎的学習段階を受け持つ義務教育現場が疲弊して久しい。それを考慮しないまま、30~50歳前後の労働者ないしは企業従業員の「学び直し」を高唱しても、説得力は弱く、「共感」も得られない。

なぜなら、現今の大学では本当に「分数計算ができない学生」も「英語の動詞変化を知らない学生」も存在するからである。さらに、ゼミでの発表を、バイト先のローテーションを理由に休む学生も珍しくない。

このように学校教育で「学ばなかった」学生が、入社後数十年が経過した後で「学び直し」ができるとは思われない。「5年間で1兆円」はまずは義務教育の充実そして高等教育に回して、「学び始め」をしっかりと支えたほうが、日本社会の「人材育成」にとっても効果的であろう。

「学び直し」ではなく「学び始め」こそが肝要なのは、技術、スポーツ、音楽、絵画、その他の芸術、学問、職業すべてに通じる真理である。

国民を「守る」のは「遺憾と最も強い表現の非難」なのか

さて、「十一 外交・安全保障」は「所信表明演説」の13節のうちでもっとも文字数が多い。それだけ重要な領域なのであろう。

皮肉なことに、その翌日に北朝鮮ミサイルが日本国土を飛び越えた。さらに連射がなされている。それについて、官房長官は恒例の「北朝鮮に対して厳重に抗議し、最も強い表現で非難した」と明らかにした。

これでは「信頼と共感」は生まれようがない。北朝鮮からミサイル発射5分で日本社会のどこにでも着弾することが改めて分かったからである。東京の霞が関や永田町への着弾ならば、「日本沈没」ならぬ「日本壊滅」の始まりになる。

国民の大半が不安にかられ、どうしたものかという心配を掬い取ったネットの書き込みとして、「Jアラートで対策を講じている雰囲気を出さないでほしいです」があった。同感である。日常生活において5分後の着弾に備えることは不可能であり、とりわけJアラートに示された「地下室」に避難という指示に、驚きあきれた日本人が多かったのではないか。日本では一般住宅に「地下室」を造る文化がないからである。

日本の政治はこのアラート内容に象徴されるであろう。せっかくの情報技術がありながら、航空機産業振興やミサイル研究開発を怠った75年間の歴史が災いして、東アジアの地政学リスクが高まっても、「未来」がまったく描けない。限りない北朝鮮のミサイルに「厳重に抗議し、最も強い表現で非難した」というだけの歴史が積み重ねられてきた。

ロシアによるウクライナ侵略戦争から何を学ぶか

「政府としては国連安保理の場を含め、米国、韓国をはじめ国際社会と緊密に連携して対応するとともに、国民の生命、財産を守り抜くため引き続き情報の収集分析及び警戒監視に全力をあげる」と毎回いわれてきた。しかし、その「分析結果」が国民に詳しく示されたことはない。

ロシアによるウクライナ侵略糾弾さえ国連安保理では可決できない現状で、どのような「対応」が可能というのか。国連の機能停止に何をどのようにするのか。非常任理事国になったとしても、5カ国の常任理事国の「拒否権」がある以上、結局は無力感が横溢するだけであろう。

何をなすべきか? 誰がなすべきか? どうすべきか?

半年前に、アゴラで提起した内容を繰り返しておこう。国連の機能不全への処方箋はこのような観点からも多面的に検討したいからである。とりあえず、国連安保理を含む諸会議での各種非難決議はなされても、実行段階ではほとんどが機能不全に陥っている現状をどのように打開するかが焦点になる。一部の報道にあるように、「常任理事国制度」の見直しが急務である。

その際、「国連分担金」の3位を占める日本(8.03%)、4位のドイツ(6.11%)、7位のイタリア(3.19%)が「平和の枢軸国」として、この制度の見直し、一定の条件では常任理事国が拒否権を行使できない、あるいは侵略するような状態であれば、その拒否権を無効にする案件を速やかに共同提起したらいかがであろうか。資本主義国の株主総会と同じく、大株主として分担金が多い非常任理事国が結集して、国連の機能不全に「物申す」のである。

すなわち、緊密に連携する相手は米韓だけではない。むしろ常任理事国ではないのに、歴史的に分担金をたくさん支払ってきた日独伊の連携もまた加えた方が、国連の機能不全解消効果があるのではないか。

このレベルまでの積極的な取り組みがないと、「ミサイルといった諸懸案を包括的に解決」という文章は文字通り空を切るだけになる。もちろん国民からの「信頼と共感」も得られないと思われる。

「信頼と共感」が溢れる与野党「論戦」を!

そして、近未来日本のため、せっかくの突っ込みどころ満載の「所信表明演説」がありながら、「旧統一教会」「国葬」「首相秘書官」などでしか盛り上がらない国会「論戦」にも、国民は政治全般への「信頼と共感」を失うことを、与野党国会議員諸氏は銘記してほしい。

【参照文献】

  • 金子勇,2022,「脱炭素と気候変動」の理論と限界(最終回):成長と無縁の繁栄はありえない アゴラ言論プラットフォーム3月17日
  • 週刊東洋経済編集部編,2022, 「特集 学校が崩れる」『週刊東洋経済』第7064号(7月23日号):38-69.