前回の記事で書いたように、「天の岩戸」の日食が邪馬台国で目撃され、卑弥呼死亡の原因になった可能性は高いようです。
では、邪馬台国はどこにあったのでしょうか。
邪馬台国の所在地をめぐる論争
50年以上前の1967年、安本美典氏の著書「邪馬台国への道」がベストセラーになったことをきっかけに、日本中で古代史ブームが巻き起こりました。当然のことですが、邪馬台国の所在地がホットな話題に浮上し、論争は現在まで続いています。
これまでの論点を整理すると、
1. 北部九州にあった邪馬台国が東遷して大和朝廷になったという九州説
2. 邪馬台国は最初から大和にあり、その後に大和朝廷に移行したという近畿説
の2つに大別されます。
このほか、大和朝廷と邪馬台国は別だという説もありますが、長くなるので後編で説明します。
論争が混乱する大きな理由は、魏志倭人伝の不可解な記述です。既に多くが語られているので、ここでは簡潔に紹介しましょう。
九州説の問題点
後述する魏志倭人伝の方角(南)を素直に解釈すると、邪馬台国は北部九州となります。
また、軍事・経済力のバロメーターとなる鉄器の出土数は、他地域を圧倒しています。
しかし、神武天皇の即位は、必然的に卑弥呼が死亡した3世紀後半以降となるため、初代神武天皇から第9代開化天皇までは10年程度で代替わりしたことになります。これは、当時の主流であった末子相続からすると、在位期間が短すぎるという有力な反論があります。
最大のネックはあえて大和に東遷した理由で、なかなか説得力のある説明は見かけないようです。
また、長浜浩明氏の労作「日本の誕生」によると、日本書紀の神武東征の記述に合う大阪湾の砂州が存在したのは、せいぜい西暦紀元前50年ぐらいまでとのことで、この点での物証は一致しません。
近畿説の問題点
大和地方の軍事・経済力を示す鉄器は、3世紀前半まであまり出土していません。この北部九州よりはるかに貧弱な軍事力と経済力で、当時はるばる遠方の魏まで朝貢できたのかという問題点が指摘されています。
また、前述したように、魏志倭人伝の方角(南)を素直に解釈すると、邪馬台国は北部九州となるため、その説明が難しいようです。
これに加え、近畿説には極めて大きな欠点があります。日本建国にとって最重要な「天孫降臨」「神武東征」が説明できないのです。
九州・日向の高千穂の峰に降り立ち、神武東征で散々苦労した後に、やっと念願の大和地方にミニ国家を建国したというエピソードはどう考えればいいのでしょう。
天皇家がそもそも九州にいなかったとするなら、これらは全部ウソというしかありません。そんなことがあり得るのでしょうか?
魏志倭人伝の謎の記述
以上のように、どちらの説も大きな欠点を抱えています。繰り返しになりますが、その主な理由は、魏志倭人伝の不可解な記述です。既に多くが語られているので、ポイントだけ紹介しておきます。
九州説でも近畿説でも、不弥国(福岡県宇美町付近)までの経由地では、大方の意見が一致しています。しかし、それから邪馬台国まで到達するのに、方角(南)を優先すると九州説、距離(1300里または水行30日+陸行1月)を優先すると近畿説が妥当となります。
なお、複数の論者からは、邪馬台国の7万戸という人口は過大だという指摘もされています。
多くの研究者は、これらの不可解な記述をうまく説明できず、いまだに論争が続いているというのが私の認識です。もともと魏志倭人伝の内容がいい加減だとするなら、邪馬台国の所在地はずっと謎として残り、そのうち迷宮入りしてしまうのでしょうか・・・。
原文を読んで深まる謎
原文を読んでみると、さらにおかしな記述に悩まされることになります。魏志倭人伝は、大きく分けて次の3章からなる構成をとっています。
第1章 邪馬台国までの行程
第2章 倭国の風俗
第3章 倭国の政治と外交
読めば分かりますが、邪馬台国までの行程が非常に分かりにくい。あえて解読困難にしているようにも思えます。
なぜかというと…
A. 帯方郡から不弥国までは、距離の単離は「里」で、「第1章」に記述。
B. 不弥国から邪馬台国までは、距離の単位は「日数」で、「第1章」に記述。
この2点は、どの解説書にも奇妙だと書いてあります。更に奇妙なのは・・・
C. 帯方郡から邪馬台国までの距離「1万2千里」は、なぜか行程を説明した「第1章」とは関係ないはずの「第2章」に記述。
不思議なことに、このC.については、私が読んだどの解説書にも説明がありませんでした。
魏志倭人伝は小学生の作文ではありません。中国のエリート中のエリートが書いたのだから、こうなったのには必ず理由があるはずです。
邪馬台国はどこにあったのか?
では、現実の邪馬台国はどこにあったのか?
前回の記事「天の岩戸」の日食はあったのか?に書いたように、卑弥呼=天照大神の日食が見られた可能性が高いのは北部九州で、奈良盆地にある大和の可能性は低いようです。
また、現実的に魏に朝貢が可能なのは、冒頭にも書いたように、鉄器の出土数が他地域を圧している、軍事・経済大国(都市国家連合)の「北部九州」しか考えられない、というのが私の回答となります。
古い話で恐縮ですが、どう頑張っても「竹槍でB29は落とせない」のです。魏への朝貢は、現在なら月への有人ロケットを打ち上げるような国家的大事業だったはず。軍事力も経済力もない小国(都市国家連合)では、そもそも不可能だと考えるのが自然だと思います。
(後編につづく)
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金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)
1960年代関東地方生まれ。ABOセンター研究員。社会人になってから、井沢元彦氏の著作に出会い、日本史に興味を持つ。以後、国内と海外の情報を収集し、ゲノム解析や天文学などの知識を生かして、独自の視点で古代史を研究。コンピューターサイエンス専攻。数学教員免許、英検1級、TOEIC900点のホルダー。