前回までは、邪馬台国の所在地について、九州説と近畿説のそれぞれについて説明しました。
(前回:古代史サイエンス:魏志倭人伝で邪馬台国の場所は分かるのか?(後編))
邪馬台国は2つあったのか
実は、邪馬台国は本家(北部九州・山門)と、分家(近畿・大和)の2つあったと仮定すると、より事実との整合性が高くなります。
奇抜な説のように思えますが、決して私独自ではなく、アゴラでは浦野文孝氏の記事に説明があります。
また、前回紹介した、あおきてつお氏の「邪馬台国は隠された」でも触れています。
浦野氏やあおき氏が指摘しているように、北部九州の山門周辺と、近畿地方の大和周辺では、どう見ても偶然とは思えないような、極めてよく似た地名が存在しているのです。やまと=山門=大和が代表例です。地名は「生きた化石」とも言われ、2千年近く前に編纂された風土記の地名が、現在でも変わらず残っているものも珍しくなく、たまたま一致したとは考えにくいと思います。
前回説明したように、長浜浩明氏の「日本の誕生」によると、日本書紀の神武東征の記述に合う大阪湾の砂州が存在したのは、せいぜい西暦紀元前50年ぐらいまでとのこと。神武天皇は、このころに北部九州を出発して東征を開始し、少なくない犠牲者を出しつつも、最終的に長髄彦(ながすねひこ)に勝利し、大和・橿原で即位したのだとも考えられます。
そうだとすれば、神武東征と当時の大阪湾の地形については、矛盾なく説明可能です。
これで、初代神武天皇から第9代開化天皇までの代替わりの年数について、10年程度という制限もなくなります。
再現性で考える邪馬台国東遷の謎
九州説の最大の問題は、北部九州にあった邪馬台国が東遷した理由です。これについても、「天の岩戸」の日食が邪馬台国で目撃され、卑弥呼が死亡したと考えると、割と簡単に説明できます。
記録によれば、奴国が漢委奴国王の金印を受けたのは西暦57年。その後、邪馬台国が魏に朝貢し、親魏倭王の金印を受けたのは西暦238年(又は239年)です。
さて、3世紀後半になると、なぜか短期間で大和が軍事・経済力で北部九州を逆転するという、少々理解に苦しむ現象が発生しています。このことは、弥生時代の鉄器の数と、古墳時代の巨大前方後円墳の数を比較すると明らかです。
以上を整理すると・・・
(奴国の覇権)
○57年 奴国が漢委奴国王の金印を受ける
○158年 皆既日食→倭国大乱→男王に代わって卑弥呼が即位
(奴国から邪馬台国に覇権が移動)
○238年 邪馬台国が親魏倭王の金印を受ける
○247年 皆既日食→卑弥呼の死→混乱→台与が即位
(邪馬台国から大和朝廷に覇権が移動?)
○3世紀後半 巨大前方後円墳が近畿地方で集中的に建設開始
つまり、どちらも日没時の皆既日食があったタイミングで覇権が移動しているのです。これは全くの偶然なのでしょうか? 私には、偶然ではなく再現性があるとしか思えません。
このほか、邪馬台国から大和朝廷に覇権が移動したことを裏付けるような、「日本(大和朝廷)は、昔は小国だったが、その後倭国の他の国々を併合した」という旧唐書の記述もあります。また、雄略天皇とされる倭王武の上表文では、「先祖たちの活躍により、我が国(倭国)は東に55国、西に66国、北に95国を平定する大国となった」と武功を誇っています。
邪馬台国の東遷は「日食」で説明できるのか
要するに、こういうことになります。
158年の日没時の皆既日食により倭国大乱が起こり、倭国の覇権は、奴国から邪馬台国に移動した。その後の247年には、もう一度日没時に皆既日食が起きた。しかし、この「天の岩戸」の皆既日食が見られたのは北部九州のみで、大和では観測されなかった。
このため、女王・卑弥呼は霊力を失ったとして殺害され、北部九州にあった邪馬台国は東遷し、大和の崇神天皇が新国王に即位した。こう考えると、神武天皇と崇神天皇の和風諡号が、いずれも始祖を示す「ハツクニシラス」というのは、極めて自然ということになります。
邪馬台国が東遷した時期は、「天の岩戸」の日食後である3世紀半ばの可能性が高いでしょう。それなら、この時期に北部九州と近畿地方のパワーバランスが短期間で逆転したことも、意外にあっさりと説明できます。
もちろん、日食が理由などというのは、あまりにも「非合理的」だという批判も多いはずです。しかし、「合理的」な理由では、古代にこれほどの短期間で東西(北部九州・大和)のパワーバランスが逆転するとは考えられません。また、少なくとも私は、この逆転について合理的に説明した論考を読んだ記憶もありません。そうだとするなら、“非合理的”な説明の方が、逆に“合理的”なのではないでしょうか。
日本書紀の謎は「日食」で説明できるのか
それだけではありません。いわゆる「欠史八代」と呼ばれる、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇ですが、日本書紀に事績が乏しい謎も氷解します。大和の近畿王朝は、北部九州の邪馬台国=九州王朝の分家だったので、文字のない時代にはほとんど記録がなかったということなのでしょう。
崇神天皇の代に疫病が大流行し、国民の半分ほどが死亡したという日本書紀の記述も同じです。北部九州の邪馬台国が大和に東遷し、移動してきた多くの人々とともに新たな感染症が持ち込まれた、と考えれば納得できます。思わず、新型コロナを思い出してしまいました。
これだけではなく、少なくない研究者が疑問を呈していた「やまと」の読みについても、明確に説明できます。それは、山門の「と」と大和の「と」は、当時の発音が違うため、山門と大和は別物で、よって邪馬台国と大和朝廷は無関係だという指摘です。上古日本語の母音は8種類あり、「お」には甲類と乙類があって、なぜか山門は甲類で大和は乙類なのです。
当時の日本には文字はありませんでした。いまでこそ、「山門」と「大和」は字が違うので、簡単に同音異義語として区別できます。しかし、発音だけ、たとえば「かな」だけで区別するのは困難でしょう。そこで、似てはいるが、あえて微妙に違う母音を選び、容易に区別できるようにしたと考えると合理的です。
日本では、新たに分家した場合に、本家と区別するため、名前に少し違う字を使うことは珍しくありません。同様に、似たような別の母音なら、山門が本家、大和が分家ということになり、区別するのに便利だったのだと推測できます。
このように、邪馬台国が東西に併存していたとすると、多くの謎が意外にあっさり解けるようです。ただし、以上は単なる私の推測も含まれ、それらには確実な物証があるわけではありません。「古代史サイエンス」と銘打った割には、科学的根拠が薄いものもあり、内心忸怩たるものがあります。
しかし、科学史を振り返ってみると、最初に奇妙な現象が発見され、しばらくしてから後出しで理論が発表されるというケースは、決して珍しくはありません。今後の研究の進展に期待したいと思います。
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金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)
1960年代関東地方生まれ。ABOセンター研究員。社会人になってから、井沢元彦氏の著作に出会い、日本史に興味を持つ。以後、国内と海外の情報を収集し、ゲノム解析や天文学などの知識を生かして、独自の視点で古代史を研究。コンピューターサイエンス専攻。数学教員免許、英検1級、TOEIC900点のホルダー。