古代史サイエンス:魏志倭人伝で邪馬台国の場所は分かるのか?(後編) --- 金澤 正由樹

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前編では、魏志倭人伝の不可解な記述について説明しました。念のために、もう一度説明しておきしょう。

(前回:古代史サイエンス:魏志倭人伝で邪馬台国の場所は分かるのか?(前編)

魏志倭人伝の謎の記述

魏志倭人伝は、大きく分けて次の3章からなる構成をとっています。

第1章 邪馬台国までの行程
第2章 倭国の風俗
第3章 倭国の政治と外交

読めば分かりますが、邪馬台国までの行程が非常に分かりにくい。あえて解読困難にしているようにも思えます。

なぜかというと…

A. 帯方郡から不弥国までは、距離の単離は「里」で、「第1章」に記述。
B. 不弥国から邪馬台国までは、距離の単位は「日数」で、「第1章」に記述。

図1 志倭人伝による邪馬台国への行程

この2点は、どの解説書にも奇妙だと書いてあります。更に奇妙なのは・・・

C. 帯方郡から邪馬台国までの距離「1万2千里」は、なぜか行程を説明した「第1章」とは関係ないはずの「第2章」に記述。

不思議なことに、このCについては、私が読んだどの解説書にも説明がありませんでした。

図2 魏志倭人伝
出典:Wikipedia

魏志倭人伝は小学生の作文ではありません。中国のエリート中のエリートが書いたのだから、こうなったのには必ず理由があるはずです。

謎の記述になった理由

そういう謎を一気に解明できると感じた本を発見しました。あおきてつお氏の「邪馬台国は隠された」(2022年出版の改訂版)です。

図3
地図の出所:三角形

あおき氏によると、魏志倭人伝を書いた陳寿の上司・司馬懿は、東の「倭国」との交渉を担当していたそうです。このため、ライバルの曹真が担当した西の「大月氏国」より遠方の大国に見せる必要に迫られていたとのこと。

後漢書によると、北インドの大月氏国は魏の首都・洛陽から1万6370里(長里=500~1km)。よって、邪馬台国までの距離は、これを上回る必要があります。しかし、現実の倭国は、インドよりずっと中国に近い小国でした。

実は、洛陽から帯方郡までは5000里(長里)で確定しています。そこで、陳寿はその先の距離1万2000里については、意図的に短里(長里の約1/10)を採用し、大月氏国を上回る1万7000里に水増ししたとの推理です。

戸数についても、大月氏国の10万戸を上回る14万戸(奴国2万+投馬国5万+邪馬台国7万)は、1戸5人で計算すると70万人。弥生時代の日本の総人口は59万人ですから、これまた相当「盛った」数字である可能性が高いようです。

陳寿のエリートとしてのプライド

魏志倭人伝の原文では、邪馬台国は呉の東方「太平洋上」(会稽東冶の東→現在の上海の東)にあるとあります。しかし、現実の邪馬台国は、九州説でも近畿説でも、呉のはるか北に位置しています。

正直に書いて、本当のことが分かるとまずい。かといって、すぐに分かるウソを書くのは、陳寿のエリートとしてのプライドが許さない。そこで、不弥国から先は実際より南にあると「誤読」されるよう、懸命に知恵を絞って細工したと考えられます。こう考えると、前述のA~Cの極めて理解しにくい記述も納得できます。

面白い冗談として、「本当に魏志倭人伝のとおりなら、邪馬台国はフィリピン沖だ」というのがありますが、これこそまさに陳寿の意図したことなのかもしれません。

では、仮に陳寿が邪馬台国の正確な所在地を知っていたとすると、魏志倭人伝にどう書けばよいのでしょうか。難しいのは、すぐに分かるウソを書いてはいけないことです。少なくとも、よく読めば本当のことが書いてある、と読者に納得させなければいけません。

なぜなら、それが当時最高の知識人を自負する陳寿の矜恃だからです。

魏志倭人伝の素直な解釈

しつこいようですが、魏志倭人伝にある邪馬台国への行程について、もう一度書いておきましょう。

A. 帯方郡から不弥国までは、距離の単離は「里」で、「第1章」に記述。
B. 不弥国から邪馬台国までは、距離の単位は「日数」で、「第1章」に記述。
C. 帯方郡から邪馬台国までの距離「1万2千里」は、なぜか行程を説明した「第1章」とは関係ない「第2章」に記述。

実は、「里」を短里(50~100m)とし、Bさえ無視すれば、邪馬台国は九州説の有力な比定地である山門(やまと=旧・山門郡瀬高町=現・みやま市瀬高町)となります。魏志倭人伝によると、不弥国(福岡県宇美町)から邪馬台国(山門)までは南行1300里。実際にも宇美町から山門までは南へ50km程度なので、誤差の範囲でほぼ一致するからです(あおき氏の結論とは異なります)。

よって、Bについては、倭国は後進国でもあるし、地形も悪いので移動に時間がかかるとでも言い訳をすれば、魏志倭人伝の記述はあながちウソとは言えません。

対して、近畿説の説明は苦しくなります。不弥国(福岡県宇美町)から邪馬台国(大和)までは南行1300里(短里)とありますが、実際には東へ「長里」(短里の約10倍)で1300里にせざるを得ないからです。なぜ、最後のこの部分だけ長里を使い、方向も違うのかが説明できるとは思えません。

この部分を長里とするなら、Cの帯方郡から邪馬台国までの距離「1万2千里」も長里と解釈するしかないでしょう。必然的に、邪馬台国は帯方郡(韓国・ソウル付近)から数千km先とするしかありません。言い換えれば、邪馬台国は日本列島上に存在しないことになります。

他の問題点も指摘されています。近畿説の大きな根拠とされる「箸墓古墳」(卑弥呼の墓?)ですが、日本書紀ではこの古墳は崇神天皇在位中に建設されたとあります。卑弥呼は神功紀の注に記述があるため、時期的に一致しません。また、箸墓古墳は前方後円墳ですが、魏志倭人伝によれば卑弥呼の墓は円墳で、形式も一致しないのです。

それだけではありません。魏志倭人伝の記述によると、邪馬台国は周囲に堀をめぐらした環濠集落とされています。北部九州では吉野ヶ里遺跡などがそうですが、箸墓古墳が位置しているのは環濠集落ではありません。

このように、文献資料を素直に読む限り、邪馬台国は北部九州とするのが最も自然だと言えるのではないでしょうか。

長くなってしまったので、大和朝廷と邪馬台国は別だという説や、その他の細かい点については、申し訳ありませんが次回に説明したいと思います。

次回につづく

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金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)
1960年代関東地方生まれ。ABOセンター研究員。社会人になってから、井沢元彦氏の著作に出会い、日本史に興味を持つ。以後、国内と海外の情報を収集し、ゲノム解析や天文学などの知識を生かして、独自の視点で古代史を研究。コンピューターサイエンス専攻。数学教員免許、英検1級、TOEIC900点のホルダー。