三河が生んだ偉人:志賀 重昂(金子 熊夫)

岡崎城の風景
MasaoTaira/iStock

外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫

前回の冒頭で触れましたように、私は、9月下旬に生まれ故郷の新城市を久しぶりに訪れ、母校の新城市立東郷中学校で講演を行いました。演題は、予告通り「なぜ戦争は無くならないのか~日本の平和と安全を考える」で、全校生徒のほか、PTAの方々も多数聴講してくださいました。中学生にはかなり難しいテーマだと思いますが、終始熱心に聴いていただき、一安心というところです。その時の模様は、別途然るべき形でご報告しておきたいと思います。

(前回:なぜ戦争は無くならないか?日本の平和と安全を守るために

さて、今回の帰郷では、長年念願していた「三河探索」(ディスカバー・ミカワ)の一環として、とくに豊橋と岡崎を重点的に見物してきました。実は、恥ずかしながら、三河生まれにもかかわらず、私は子供の時から一度も岡崎を訪れたことが無く、豊橋もほとんど知りません。この年になってやや遅きに失した感がありますが、元気なうちに両市をじっくり見物できて良かったと思います。

豊橋と吉田城址

先ず豊橋では、真っ先に吉田城へ行きました。豊川の清流が三河湾にそそぐ絶好のロケーションに立つ吉田城は、しかし、他の全国的に知られた城に比べ、いかにもお粗末で、保存管理状態も悪く、正直がっかり。直ぐ傍にそそり立つ豪華な市庁舎の陰で細々と生き永らえているという感じがしました。

元々この城は、戦国時代に築城の名手池田輝政が城主(15万石)として築いたものだそうですが、その後、関ケ原の戦い(1600年)の翌年、突然播州・姫路(兵庫県)に移封されたため、中途半端に終わってしまったようです。もし彼が豊橋に永住していたなら、きっと素晴らしい名城を造ったでしょうが、その代わり現在の国宝・姫路城は存在しなかったでしょう。歴史の偶然ながら、豊橋にとっては不幸なことでした。ただ、当時から三河武士には質実剛健の気風があり、実戦向きでない華美な外観のお城には関心が無かったのかも。

なお、戦前城内にあった陸軍歩兵第18連隊は、私の子供のころから勇猛果敢な連隊として知られていましたが、大戦中に南方戦線に派遣され、サイパン島やグアム島での米軍との戦闘でほぼ全滅。奇跡的に生き残って帰還した方々が戦後建てた慰霊碑が城址の一隅にひっそり建っていました。

岡崎城と志賀重昂

次に、翌日訪れた岡崎城は、言わずと知れた徳川家康(幼名竹千代)の出生地。あいにく目下、来年のNHK大河ドラマ「どうする家康!」に備えて、お城や資料館は改装中で入場できず。天守閣は外から眺めるだけでしたが、ここでも観光客向けの「厚化粧」が目立ち、折角の由緒ある歴史的遺産が十分生かされていないという残念な印象を受けました。市当局の一層真剣な取り組みをつよく期待する次第。というわけで、豊橋の吉田城と同じく、お城巡りはいささか不満足な結果に終わりました。

志賀重昂(1863~1927年)

実は、岡崎では、お城の他に、もう一つ、是非訪れたいところがありました。それはこの地で生まれた志賀重昂(しげたか)のお墓と、彼の「三河男児の歌」の記念碑です。

お墓と歌碑は、岡崎の市街地を一望に見下ろす東公園内に、少し離れて建っており、場所的にはいかにも重昂にふさわしいと感じました。が、私たち以外に訪れる人は全くおらず、忘れられた存在に見えました。記念碑の説明文も昔流の難しい文体で、今の若い人には理解困難でしょう。

後世の三河人の奮起を訴えようとする重昂の意気込みが空回りしている感じで、立像も心なしか寂しげに見えました。ここでも、管理責任者(岡崎市?)の一層の工夫がほしいところ。

「三河男児の歌」に込められた意味

私が初めて志賀重昂の名前を聞いたのは、中学2年生の時、社会科担当の中西光夫先生(本欄2020年12月7日「わが師の恩~佐藤泰舜禅師と中西光夫先生」参照)が教室の黒板にその名前を大きく書かれたから。

以来重昂の著作や評伝には出来るだけ目を通し、その人柄にはつよく惹かれてきましたが、出生地の岡崎を訪ねるのは今回が初めて。とくに彼の有名な「三河男児の歌」が地元の岡崎で現在、どれだけの人に記憶され、愛唱されているか気になっていました。

重昂の「三河男児の歌」の歌碑

ちなみに、私は寡聞にして、同じ「三河男児の歌」という題名の歌が二つあることを比較的最近まで知りませんでした。一つは重昂のそれで、「汝見ずや段戸(だんど)の山は五千尺又見ずや矢矧(やはぎ)の水は三十里」で始まり、最後は「三河男児それ行け、三河男児須(すべから)く奮起すべし」で終わる漢文調の長詩。

もう一つの「三河男児の歌」

もう一つは、彦坂幸太郎という、重昂より10年後生まれた人が、かつて名古屋にあった愛知県第一師範学校(現在の愛知教育大学)の教員時代、明治38年(1905年)ごろに作詞したものと言われています。歌詞は10番まであり、1番は「雲に聳(そび)ゆる段戸山、波は静けき渥美湾」で始まるもの。現在でも三河地方では校歌や運動会の応援歌として歌われ、広く親しまれているようです(歌詞の全文はインターネットで簡単に検索できます)。

全く同じタイトルなので、こちらも志賀重昂の作と誤解されていますが、近年の研究で、最初の「汝見ずや段戸の山は」だけが本当の彼の作であることがはっきりしています。

志賀重昂の像(岡崎市東公園)

それはともかくとして、この歌に込められた重昂の三河人に対する熱い思いは、百年の時を経て私たちの胸に迫ってくるものがあります。と同時に、このような郷土愛と気概に溢れた偉人がいたことに私たちは、もっと誇りを持つべきだと思います。

 

かく申す私自身も、このような偉大な郷里の大先輩の存在を知りながら、もっと早く自ら岡崎を訪れ、彼の遺跡を確認するとともに、その功績を現代の若い人たちに顕彰する努力を怠ってきたことを反省しています。

今回の岡崎訪問には、故中西先生の長女、小田章恵さん(岡崎在住)が同行して、丁寧に案内してくれましたが、彼女自身、例の「サヤカ」(豊臣秀吉の朝鮮出兵時に投降した日本の武将。詳細は前記の拙稿参照)が取り持つ縁で、長年日韓親善交流に努めてこられましたが、それも、重昂の叱咤激励に触発されたものではなかったかと推察します。

是非、岡崎だけでなく、三河中の心ある市民が結束して、日本と近隣国との友好関係増進のため、ひいては世界平和のために頑張ってもらいたいものです。

重昂の「アジア観」に学ぶべきこと

志賀重昂は、周知のように、札幌農学校で内村鑑三、新渡戸稲造などの後輩として学び、明治、大正、昭和初期にかけて世界的にも知られた偉大な地理学者、ジャーナリスト、政治思想家でした。「日本ライン」の命名者としても有名。今回の岡崎旅行でも、彼が、いかにアジアの各地域を広く探索し、それらの地域についての知識を日本国民に伝えようとしたかを再認識できました。

彼は明治時代の一時期を除いて政府には入らず、民間人の自由な立場で、時には軍艦に便乗して、世界各地、とりわけアジア各地を旅行し、現地視察を行いました。その意味で、彼こそは「東南アジア」への関心を初めて日本人に植え付けた功労者であると、東南アジア研究の権威であった畏友、故矢野暢教授(元京大)も太鼓判を押していました。

志賀重昂の墓(右は筆者)

重昂より1世代前の福沢諭吉は、幕末に幕府使節団に随行して欧米視察旅行をしての帰途、インド、シンガポール、ベトナム、香港、上海などで現地人(当時の言葉で「土人」)が欧米植民地の奴隷として惨めな暮らしをしているのを目撃して、「脱亜入欧」(アジア人とは絶交して欧米の仲間入りする)を唱え、やや白人崇拝主義の傾向があったようですが、重昂はアジアを同じアジア人として見て、これとの友好親善を説いた点で、「アジアは1つなり」の岡倉天心に相通じるものがあったのではないかと思います。

そのことは、岡崎東公園内の彼の墓がインドのストゥーパ(卒塔婆)の形をしていることからも窺えるように思いました。その意味で、彼は、日本人に「アジア」を正しく理解することの重要性を教えてくれているのだと思います。こうした彼の政治思想家としての偉大な業績については、別の機会に詳しく論じてみたいと考えています。

(2022年10月10日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)


編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。