「全世代社会保障」の実行性と実効性

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「膨大予算三兄弟」

いつからまた誰が使い始めたか定かではないが、「膨大予算三兄弟」として、この数か月間の政治やマスコミの話題には「国防費」、「脱炭素社会づくり」、「少子化対策」が頻繁に取り上げられている注1)

一つには、日常化した北朝鮮ミサイルの日本海への弾着、中国船舶の尖閣列島周辺の航海、いつ終わるともしれないロシアによるウクライナ侵略戦争、そして侵略戦争を解決できない国連安保理の機能停止などを見れば、2023年年頭には改めて「国を守る」ことの意味や意義を考えざるを得ない。

二つ目には、GXと称して、人体の14%を占め、大気中の0.04%程度の二酸化炭素を「人類の敵」と見立てて、2030年や2050年までの目標を設定して、「脱炭素」を人類の最優先の課題とする国連、その下部機関のIPCCやCOPという組織、そしてそれに追随する日本政府や財界とマスコミ界さらに一部の学界などが存在する。

三つ目には、40年前から予想されてきた出生数の減少、年少人口数の漸減と比率の低下、総人口の減少、高齢者数の増大と高齢化率の上昇、そして平均世帯人員の低下などが同時進行する「人口変容社会」が到来した。このうち、高齢化の進行に伴う介護需要の急増にのみ、2000年4月からの介護保険制度が唯一健全な防波堤になってきた。

その半面で、出生数の減少が激しくなり、2022年では75万人程度と見込まれるに至って、40年間の「待機児童ゼロ」と「ワークライフバランス」に象徴される「少子化対策」の「失敗」が、かつての厚生省(厚生労働省)の実務者からも公然と指摘されるようになってきた注2)

3つの「報告書」

このような動向が顕著になった2022年に、岸田内閣はその施政方針の工程表を含む詳細な政策のうち、社会学の立場から強く関心をもたざるを得ない「報告書」を3冊公表してきた。半年前の6月には内閣の目玉となった「新しい資本主義」に関連した2冊、

  • 新しい資本主義実現会議『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画(案)』(2022年6月7日)(以下、『新しい資本主義』と略称)
  • 『経済財政運営と改革の基本方針2022』(2022年6月7日)閣議決定 (以下、『改革の基本方針』と略称)

が出された。このうち、『新しい資本主義』は16名で構成される「実現会議」が作成したことになっていて、首相自身はその委員ではない。

また、『改革の基本方針』は閣議決定されたものなので、「草案」はどこかで数人がお書きになったのであろうが、私の立場では知る由もない。

そして12月に公表された3冊目では、委員も本部全体も著しい出生数減少に危惧感を抱いていたことが全篇から伝わってくる。それが、全世代型社会保障構築会議『全世代型社会保障構築会議報告書』(2022年12月16日)である(以下、『全世代社会保障』と略称)。

この報告書では、首相は構築会議本部長だが、会議のメンバーではない。しかし、18人の構築会議委員がまとめ、その構築会議本部が出した『全世代社会保障』は今後の内閣による改革方針を示すものであり、ここで取り上げておきたい注3)

3冊に見る共通の特徴

まずは12月の『全世代社会保障』と、6月の『新しい資本主義』と『改革の基本方針』との共通点を整理しておこう。

その一つは、せっかくその報告書で肝心なキーワードを使いながら、その定義を行わないという特徴が指摘できる。『新しい資本主義』で当時話題になった箇所、すなわち、「資本主義のバージョンアップ」に関連していわれた、「資本主義を超える制度は資本主義でしかありえない。新しい資本主義は、もちろん資本主義である」(『新しい資本主義』:1)という一文に象徴される。これは単なる開き直りというレベルではなく、学術的な叙述のスタイルを完全に無視した書き方であった。

もう一つは『新しい資本主義』でも重要な位置づけがなされた「V 経済社会の多極集中化」のうち、「1.デジタル田園都市国家構想の推進」における「田園都市国家」の未定義である(同上:27)。執筆担当者が「田園都市国家」に全く触れず、「デジタル基盤の構築」を優先したかったことはよく分かるが、それならば「田園都市国家」を使う必然性はどこにもなかった。

なぜなら、「田園都市」の主唱者ハワードも『明日の田園都市』もここにまったく登場しないからである。1898年にハワードは、田園の中で独立した新しい人口3万人程度の理想都市として「田園都市」(garden city)を発表した。この内容を一切省略して、「デジタルサービス」「デジタル基盤の構築」「デジタル推進委員」「地域協議会」「digi甲子園」などが代わりに出てきた(同上:27-28)。この体質は『全世代社会保障』にも濃厚に引き継がれている。

『全世代社会保障』で「世代論」がなかった

その『全世代社会保障』では、肝心の「世代」論が展開されなかった。

一般に「世代」とは同じ時代に生まれた人々の集合を意味するので、「全世代」は異なる時代に生まれた人々の全集合になる。すなわち、団塊世代を例にすれば、1947、48、49年生まれを中に挟んで46年の誕生者から54年生まれ組までの幅がある。30歳離れた団塊ジュニア世代であれば、1980年代前期を核とした10年程度の幅を持つ中年世代になる。そして60年後の団塊世代の孫世代ならば、2010年代生まれの年少世代になる。

タイトルにも使われた「全世代」とは、これら三世代を含む世代全集合が同じ時代に同時存在することを包括した用語になる。この簡単な定義が行われないと、「世代論」の活用が難しくなる。

この理由には18人の構築会議委員に社会学者がいなかったことがあげられる。「世代に関するかぎり、問題の輪郭を素描する仕事は、疑いもなく社会学のものである」(マンハイム、1928=1976:168)。この古典が指摘するように、社会学者が皆無ならば、「全世代で支え合い、人口減少・超高齢社会の課題を克服する」議論が不十分になるのは仕方がない。この克服が『全世代社会保障』の第一の論点になる。

なぜなら、「全世代」の軸となる「世代連関」は、異なる「世代統一」の全集合になるからである。これは簡単ではない。それは世代の代わりにジェンダーや人種や民族、そして宗教を挿入して、その後に「ジェンダー連携」「人種連携」「民族連携」「宗教連携」などがいかに困難かを考えてみればよく分かるであろう。

自助・共助・公助が消えた

第二の論点は6月の『新しい資本主義』では29頁に、そして『改革の基本方針』でも26頁で使われた「自助・共助・公助」が『全世代社会保障』では消え去り、わずかに4頁に「互助」が登場しただけである注4)

しかも「互助」が使われたのは、一人暮らしの高齢者の増加、孤独・孤立の深刻化のなかでのケアとしての体制整備の文脈(:4)であり、23頁の「住民同士が助け合う」という使い方であった。

孤独・孤立の大きな原因に、少子化対策として40年間政府が継続してきた「ワークライフバランス」(前半は両立ライフといわれた)における「コミュニティ排除」にあったことが忘れられている注5)

「共助社会づくり」も消えた

他にも『改革の基本方針』で謳われた「共助社会づくり」(:12)が消え、「社会保険を始めとする共助について、包摂的で中立的な仕組みとし、制度による分断や格差、就労の歪みが生じないようにする」(同上:31)もまた、『全世代社会保障』ではその方法と内容の深まりは見られない。

「人への投資」表現への疑問

第三の論点としては、3冊ともに繰り返し多用された「人への投資」という表現の是非があげられる。たとえば『新しい資本主義』では、4頁の「重点投資」の筆頭に置かれ、『改革の基本方針』でも「少子化対策・こども政策は、包摂社会の実現に向けて重要であるだけでなく、『人への投資』としても重要」(:5)とされていた。

そして『全世代社会保障』でもたとえば6頁の「所得再分配」の一環としてや、16頁の「労働移動」に関してその使用が認められる。

しかし、3冊でいとも簡単に使われた「人への投資」は、「利益を得る」ためなのかという根本的な疑念が生じる。なぜなら、通常の言葉としての「投資」(investment)は、その目的に必ず「利益」や「収入」や「所得」を前提にするからである。企業の投資はもちろん、個人投資もまたなんらかの「経済的利益」を得るために行われる。そうすると、「人への投資」も「利益」を求めて行われることになるが、その使い方でいいのかという疑問である。

科研費は研究者に「投資」されてきたのか?

たとえば、政府が科学研究費(科研費)を予算化し、全国の研究者がこの獲得のために申請して、その採択率が25%程度だとする。そうすると、残り75%は科研費の恩恵にはもちろんあずからないが、採択されたからといっても、すぐに研究成果が得られるとは限らない。なかには実験や調査で失敗もある。そうすると、政府が研究者に「科研費を投資する」という表現は不都合になり、現にこれまでの100年間の歴史においてもこの種の表現はなされてこなかった。

特定の研究に金銭的支援(投資)をしても、直接的な見返りとしての研究成果(利益)が必ず出るわけではないからである。

このような科学の歴史からすると、2022年に岸田内閣が出した3冊の報告書で多用された「人への投資」という表現は、私にとっては違和感が多く、納得しにくいものであった。

「『将来世代』の安心を保障する」

以上のような論点満載の「全世代型社会保障の基本理念」の筆頭は、「『将来世代』の安心を保障する」にあった。ここで言われるまだ生まれていない「世代」も含めた「全世代型社会保障」の対象は、国民の全集合に他ならない。

報告書5頁に若年期、壮中年期、高齢期が例示してあるが、要するにゼロ歳から100歳までの全集合が「安心できる社会保障」(:5)をこれは意味する。さらに「負担を将来世代へと先送りせず」(:5)に、「現在の現役世代」の安心を確保するという主張がなされている(:5)。

これはどのようにしたら可能か。その解明のため「世代会計論」で考えてみよう。

「世代会計」から判断する

12月公表の『全世代社会保障』では、「負担は現役世代」「給付は高齢世代」という伝統的思考から転換したことが顕著にうかがえる。そしてそこには明示的ではないが、コトリコフが開発した手法、すなわち「世代会計」の発想が読み取れる。

「世代会計はだれが助けられ、だれが傷つくのかを明らかにする。世代会計では、ある世代が少ない支払いで済むような政策は他の世代にそれに比例したより大きな負担を課すものである」(コトリコフ、1992=1993:30)とされた。したがって世代会計とは「彼方立てれば此方が立たぬ」部分を必然的にもつ内容としても理解できる。

「世代会計」の公式

いわば一つの時代に共存・共生する数世代の中で、何らかの理由で得する世代があれば、必ず損をする世代も生まれる会計方式と当初は考えられたように思われる。しかし12年後のバーンズとの共著では、(1)の公式が示されて、「政府の請求書をどの世代が払うかを明らかにするために開発された」(コトリコフとバーンズ、2004=2005:332)とされた。その公式は

A=C+D+V-T……(1)

ただし、A:将来世代の負担 C:政府支出の現在価値 D:公的債務 V:潜在的債務 T:現在世代の支払う税収の現在価値となる(同上:83)。

まだ生まれていない将来世代の負担総額(A)は、政府が毎年支出する予算として歳出する金額(C)、国債など国の借金としての公的債務(D)、各種年金など社会保障費関連費用などの潜在的債務(V)があるが、もちろん現在世代の支払う税負担や社会保障関連費用(T)などが差し引かれることを(1)は示している。

コトリコフとバーンズは、将来世代の負担ができるだけ軽くなる手法として、「世代会計」手法を考案したことになる。「我々は集団で、子供たちにわずかな手掛かりさえ与えずに彼らの経済的未来を危険にさらしている」(同上:334)にその意図が読み取れる。

(1)を使えば、Aをできるだけ少なくするには、CDVを減らし、Tを増やせばいいのだが、さまざまな世代が置かれた事情があり、それは簡単ではない。

世代内でも世代間でも鮮明な階層格差が存在する

なぜなら、世代内でも世代間でも鮮明な階層格差が存在している事実への対処が、「世代会計」でも難しいからである。

加えて『全世代社会保障』では、(1)のA(将来世代の負担)を軽くするために、T(現在世代の支払う税や社会保障負担)を増やすことではなく、同じくT(現在世代)に所属する「若い世代」(T)と「高齢世代」(T)の間にも「負担」の在り方を見直そうという提言が含まれている。

それは、「社会保障を支えるのは若い世代であり、高齢者は支えられる世代である」(『全世代社会保障』:5)という文章に、「負担見直し」の意図を見る。マスコミでは、この文章から直ちに「高齢者の負担増」という解説をしていたが、それ以外の負担増には触れなくてよいか。

「C+D+V」はそのままか

肝心なことは、「負担を将来世代へと先送りしない」のならば、何をどうすればいいのかにある。

そうすると、(1)の公式からは「C+D+V」、すなわち「政府予算+国債などの公的債務+社会保障費関連の潜在的債務」の削減方針もまた浮かんでくる。いわゆる無駄遣いを減らすことも同時に「基本理念」に組み込まれるはずである。

たとえば、この数年は防衛費と同額の6兆円であった「少子化対策」の成果が、「待機児童」を減少させた以外には記されていない(同上:9)ことからも分かるように、予算の使い方に問題がある政策も多かったように思われる。

その他にもコロナ関連の大盤振る舞い、東京五輪での予算超過と贈収賄事件、これまでに「地球温暖化対策」や「脱炭素」で無駄に使ってきた100兆円(渡辺、2022)など、予算でも公的債務でも削減できる費目は数多いであろう。しかし、その見直しに『全世代社会保障』は積極的ではない。

『全世代社会保障』の改革項目

『全世代社会保障』では、さらに「世代間対立に陥ることなく、全ての世代にわたって広く共有していかなければならない」(同上:5)とはいうものの、その共有方法は示されていない。

代わりに、若者から高齢者までを巻き込み、

  1. 75歳以上の公的医療保険の段階的引き上げ
  2. 出産育児一時金を50万円に増額(現在は原則42万円)
  3. 妊産婦向けの合計10万円相当の給付
  4. 子育て期間に時短勤務を選びやすくする給付制度の具体化(2023年以内)
  5. 介護保険料増やサービス利用料の負担割合の引き上げについての結論(23年夏)

などが具体策候補に上がっている。

これらの政策は人口反転には直結しないものの、いずれも当面の実効性が期待できるので、速やかな実行が求められる政策といってよい。

さらに詰めたい論点

一方で、報告書特有の表現「必要である」「すべきである」「重要である」に止まり、その実行法が示されず、したがって実効性の見通しに欠ける論点も多い。

第一に、たとえば「社会保障の機能が十全に発揮されるためには、人々を働き方や勤務先の企業の属性などによって制度的に排除することなく、社会保障制度の内に包摂していくことが重要になる」(:6)はその通りだが、ここで終わっては単なる「おとぎ話」(fairy tale)になってしまう。

具体的には私が40年以上勤務してきた大学の事例に絞っても、非常勤講師の方々は「制度的に排除」されたままであり、そこにはいわゆる「無期転換ルール」の問題が横たわっている。

これは、「同一の使用者(企業)との間で、有期労働契約が更新されて通算5年を超える時に、労働者の申込みによって無期労働契約に転換されるルール」であるが、大学や研究機関などでは特例としてそれが「通算10年」と定められている。

『全世代社会保障』では「その実効性を更に高めるための方策を講ずるべきである」(:15)と記されてはいるものの、1200余りの大学に勤務する数万人の非常勤講師の現状も「特例」として把握したうえで提言なのか。また全国的に増加してきた公立大学が、このルールの「適用対象」から外されたままでいいのだろうか。その場合の「実行性」および「実効性」とは何をさすのか。

社会的ジレンマ論は不要か

その他、第二として、「働き方に中立的」や「中立的社会保障」とは何か。今後のさらなる論点の筆頭に、社会保障全体像を束ねる意味でもこの「中立」の深化が求められる。なぜなら、一般的にもジェンダー格差があり、階層格差が日常的に固定しつつある中で、「中立的働き方」や「中立的社会保障」の手がかりとして、具体的指標が欲しいからである。

第三に、「全世代型社会保障の理念」のうち6頁目の「個人の幸福とともに、社会全体を幸福にする」は、学問的な社会的ジレンマ論を無視した言説でしかないという問題が残る。常識的には個人利害と共同利害との関連は、19世紀のコントが言ったように、「共同的利害とは個人的利害が多数の個人に共通的になった結果」(コント、1830-1842=1911=1928:93)といえる場合も確かにある。

たとえば健康については、健康な個人が多くなれば、社会全体の健康度も上がるから、コント命題は成立しそうであるが、その両者がいつも可能であるとは限らない。なぜなら、個人の側にはよくても、社会の側には負荷をかけるような社会的ジレンマが発生することも多いからである。

周知の例で言えば、個人にとっては預金や貯金は財産を増やすという利益をもつが、社会全体で預貯金が増大しすぎれば、消費が低迷して、企業業績が悪化して、社会的には景気が悪くなり、その個人が失業する危険性すら増すことがある注6)

私悪は公益か

コントに先立つ100年前のマンデヴィルの『蜂の寓話』では、「私悪すなわち公益」(Private Vices, Public Benefits)が論じられている。

これは社会学や経済学ではその前史としても有名であり、「じつに多くのところで悪から善が生じて増殖する」(マンデヴィル、1714=1924=1985:86)に象徴されるような「私悪=公益」という思想が、その後の社会思想史でも受け止められてきた。たとえば『蜂の寓話』から62年後のアダム・スミスの「見えざる手」もまた、「個人の利己心の延長線上に社会の生産力の発展と利害の調整」が想定されていた。

一方で、その逆の事態、すなわち個人にとっていい行為(合理的行為)の集合が社会にとっては悪い結果(非合理的結果)を生むこともまた、社会学や社会心理学では実証的な社会的ジレンマ論として研究されてきた注7)

社会的ジレンマの定義

社会的ジレンマとは、「人々が個人的合理性を追求する結果、社会的には非合理的な状態に陥ってしまうメカニズム」(海野、2021:38)である。そこには合理的行動のとらえ方を始め、社会的慣行と制度のかかわり方などの研究へと拡散するテーマが含まれている。ウェーバーのいう「目的合理的行為」「価値合理的行為」「感情的行為」「伝統的行為」に分けることも可能である(ウェーバー、1922=1972:39)。

その意味で、社会的ジレンマとは個々人が「合理的」に行為を積み上げても、社会全体では「非合理性」が蓄積して、その影響が個々人に非合理な形で還流するメカニズムといえる。

もちろん逆もまた成立して、社会にとっては合理的でも個人には非合理的な結果もあり得る。

たとえば納税が支障なく進むことは、国税庁という行政機関にとっては合理的ではある。しかし、国民にそのためのe-taxを強要すれば、パソコンを保有しない個人や使えない個人にとっては非合理的な結果しか生み出さず、ひいては納税自体が遅れてしまい、行政の租税収入がいつまでも確定しなくなるという不合理性が発生する。同じことが、2022年の半ば強制的な「マイナンバーカード普及」でも認められる。

「寄り添う」だけでは解決しない

この観点から、第四として『全世代社会保障』の表現についてもコメントをしておきたい。

まず数か所で使用された「寄り添いながら支援する」(:6)、「伴走型相談支援」(:10)、「伴走支援する」(:23)、「一人ひとりに寄り添う支援」(:23)にはそれにふさわしい専門家の増員が前提となるが、その財源や育成プランも「充実を図る必要がある」だけで済ませていいのか。

同時に現在の「行政改革」=「定員削減」公式に「伴走者の増員」を明記できるのか注8)。ここでも、個別の伴走的支援を充実すればするほど、社会的には増員が求められるというジレンマが顕在化する。

難問の「世代間・世代内における公平性の確保」

最後に、「世代間・世代内における公平性の確保」(:17)についての問題をどのように解決するか。「給付と負担のバランスを含めた不断の見直しを図るべき」(:17)というだけでは実行性に欠けて、前には進めない。

世代内にも世代間にもさまざまな格差が現存しているから、「給付は高齢世代、負担は現役世代」という従来型のシステムを転換するだけでは不十分である。というのも、現在の高齢世代もまた、過去40年間の時代環境のなかでそれぞれの立場の「負担」をしてきたからである。その「負担」には税や社会保障関連の公的負担だけではなく、子ども育成のための直接的な私的負担も含まれている。

学習費の増加

2021年度の文科省による「学習費」調査(2022年12月21日発表)によれば、学習費の1年間平均は、公立小の35万2566円(前回2018年度32万1281円)、私立小の166万6949円(同159万8691円)、公立中の53万8799円(同48万8397円)、私立中の143万6353円(同140万6433円)、私立高の105万4444円(同96万9911円)が過去最多になった。

子育て世帯はこのような個人負担をしているが、同じ年齢でも子どもがいなければ、ゼロになる。このような「学習費」を高校卒業まで直接に自己負担した世代とそうでない世代間において、どのような実効性に富む「公平性」が想定できるのか。

また「世代間公平性」は、このような子育て経験世代が多い「高齢世代」と単身者が増大している「現役世代」との間でも、問い直される時代になってきた。その意味でも、「世代論」を軸にした「改革の工程表」もまた緊急に求められる。

注1)合わせて、国葬問題、旧統一教会問題、サッカーのワールドカップ、政治とカネなどが並行したニュースになっていたので、議論すべき優先順位に戸惑う国民も多かったに違いない。

注2)具体的には金子(2022c)で詳述している。同時に言論界では、それぞれの立場からの「少子化対策」案が百花繚乱の状態にある。

注3)表現形式も6月刊行の2冊では、主語はおそらく首相ないしは内閣もしくは政府であり、「推進する」や「取り組む」という述語で締められている。しかし、『全世代社会保障』は構築会議が本部に提言するという趣旨なので、「必要がある」「すべきである」が、実に本文26ページで94か所も乱発されている。なお、ほぼ同じ意味の「望まれる」「求められる」「重要である」も多用されたが、この94か所には含めていない。

注4)社会保障や地域福祉関連そして少子化克服のための支え合いには、自助、互助、共助、公助、商助(民間企業による有償のサービス)の組合せを私は主張してきた(金子、1997;2016)。なお、最近では、金子(2022a)が詳しい。

注5)これについては「レギュラーワーク・ケア・コミュニティ・ライフ・バランス」(省略して、ワーク・ライフ・コミュニティ・バランス)を提起してきた(金子、2016:103)。

注6)30年前の北国では、冬道の運転には個人にとって安全と思われた「スパイクタイヤ」が普及していたが、その「スパイク」が路面を削り、粉塵を空気中にまき散らす公害が発生して、社会全体に大きな被害が出た事例がある。

注7)日本語の「ジレンマ」では、二つの厄介な事柄のうちどちらかを選択することが難しい状況を指すことが多い。

注8)行政改革は単なる定員削減ではないという説明は、金子(2022b、第5章)に詳しい。

【参照文献】

  • Comte,A,1830-1842,Cours de philosophie  positive,6tomes,=1911 Résumé par Rigolage, É (=1928 石川三四郎訳『実証哲学 世界大思想全集26』(下)春秋社).
  • 金子勇,1997,『地域福祉社会学』ミネルヴァ書房.
  • 金子勇,2016,『日本の子育て共同参画社会』ミネルヴァ書房.
  • 金子勇,2022a,「政治家の基礎力(情熱・見識・責任感)⑥:家族と支援」(アゴラ言論プラットフォーム5月30日).
  • 金子勇,2022b,『児童虐待という病理』22世紀アート(電子ブック).
  • 金子勇,2022c,「『人口変容社会』の未来共有」(アゴラ言論プラットフォーム12月8日).
  • Kotlikoff,L.J.,1992,Generational Accounting,The Free Press.(=1993 香西泰監訳 『世代の経済学』日本経済新聞社).
  • Kotlikoff,L.J.and Burns,S.,2004,The Coming Generational Storm,The MIT Press.(=2005 中川治子訳 『破産する未来』日本経済新聞社).
  • Mandeville,B.,1714=1924,The Fable of the Bees:or Private Vices,Public Benefits. Oxford University Press.(=1985 泉谷治訳 『蜂の寓話—私悪すなわち公益』法政大学出版局).
  • Mannheim,K.,1928,“Das Problem der Generationen,”Kölner Vierteljahrshefte für Soziologie,7 Jahrg.Heft2.~3.(=1976 鈴木広訳「世代の問題」樺俊雄監修『マンハイム全集3 社会学の課題』潮出版社:147-232).
  • 海野道郎,2021,『社会的ジレンマ』ミネルヴァ書房.
  • 渡辺正,2022,『「気候変動・脱炭素」14のウソ』丸善出版.
  • Weber,M.,1922, “Soziologische Grundbegriffe”,in Wirtschaft und Gesellschaft, Tübingen,J.C.B.Mohr.(=1972 清水幾太郎訳『社会学の根本概念』岩波書店).