これまでに提示してきた「日米韓連携の試練」3本の記事では、『日曜報道THE PRIME(2月5日)』における実際の松川議員の発言をはじめとして、SNS上での言葉の往来をも記録し、分析対象となる事実を整えてきた。
本稿以降では下記5点に分類して因子分解を進めて、最後に問題の解決策の提示までたどり着きたい。深い理解の基礎として本稿ではまず、「わかるとはどういうことか」について認識を揃え、一層深い相互理解を目指す。
「わかる」とはどういうことか
人が何かを「わかる」とはどういうことだろうか。認知心理学の「二重貯蔵モデル」(:記憶を長期記憶と短期記憶に分類)に基づいて表現するならば、概ね次の通りとなる。
わかるとは、入力情報が、人間の情報処理系の中で適切に処理されて、頭の中に格納されている既有の知識に同化させることができたか、あるいは既有の知識をうまく調節できることである。(※『心理学者が教える 読ませる技術 聞かせる技術』(海保博之著、ブルーバックス)より引用)
しかしこれでは何を言っているか、それこそ「わかりにくい」文章である。(正確性は犠牲になるが)私達の頭の中にすでにある知識で表現すると次の通りとなる。
「わかる」とは:
新しい情報と、すでに自分が知っている情報とが一致すること」あるいは、「新しい情報をうまく取り入れて、頭のなかの情報を更新できること。
言い換えると「受け取った情報を既知の情報や“先入観”に沿う形で受け入れられた」とき、あるいは「新しい知識の塊を手にすることができた」ときに「わかった」と感じられる。
「わかる・わからない」には感情も働く
「わかること」は気持ちが良い。逆に「わからないままでいる状態」は気持ちが悪い。このように「わかる・わからない」という知的活動には「気持ち良い・悪い」という情緒が密接に関係している。
一般化すると「知的活動である情報処理とその成果物に対して、情緒システムが密接に介在している」となるが、この表現もわかりにくい。そこで、正確性をひとまず横に置き、この心の仕組みがもたらす現象を日常語で言い換えると次の通り。
何かを『知る』ことはスッキリして気持ちが良い。しかし情報内容が『気持ちを悪くする』こともある。そこで内容の不快さが予想できて「受け取る内容の気持ち悪さ」が「知る気持ちよさ」を上回りそうな場合、知らない状態のままの方が「気持ち的にはまだまし」である。そこで、情報受け取りを拒絶する(心の耳を塞ぐ)ことがある。
このように、私達は「情報を合理的に処理する」と同時に、「情緒的な判断も行っている」のである。
そして何を快とし不快とするかは、人により異なる。そのため、「知るべきか」・「知らないままでおくべきか」、どちらを優先するかも人それぞれである。
人の集団が「不都合だとしても事実を知りたい人々」と「不快な事実ならば知りたくない人々」にわかれる原因は、この価値の置き方(優先順位)の違いにある。
このため仮に、心理的に受け取りたくない情報が予想される文章などを読む場合、目で字面を追って「一読」しても、内容はほとんど理解できていないことが多い。
具体的にいうと、「自分が嫌いな韓国」が、「嫌いにさせた原因を解決しつつある」という内容は不快なので受け止められない。そのため「松川議員の説明文は読んだ」としながらも、心理的には拒絶感を伴う先入観を持ったままなので、実際には表面的に文章を目で追って読み飛ばしただけであり、結局現状を誤解したままであり続ける。
理解の深化を妨げる「わかったつもり」
感情面の影響に加え、読解技術的な性質から理解が歪むことがある。どのような場面でそれは起きるのだろうか。「妖怪アマビエ」のケースで説明したい。
「疫病退散!妖怪アマビエ」
2020年のCOVID-19流行初期、日本に古くから伝わる妖怪「アマビエ」が注目を浴び、厚生労働省の告知にも利用された。
疫病から人々を守るとされる妖怪「アマビエ」をモチーフに、啓発アイコンを作成しました。(厚労省サイトより)
アマビエとは「疫病封じの妖怪」とされ江戸時代末期に登場したとされ、添付画像のように、ひし形の目・長い髪・ウロコ・クチバシを持つアマエビは、どうやら人魚のようにも見える。
さて、唐突に妖怪アマビエの話を記述したが、ここでの主題はアマビエではなくミクロな読解の技術論である。読者の皆様は誤植にお気付きだろうか。話の最後に記載されていたのは「クチバシを持つアマエビ」である(太字部分が誤植)。話題に登り始めた当初、実際に「妖怪アマビエ」を「アマエビ(甘海老)の妖怪」と誤認していた人も観測された。
抜き打ち試験のようになってしまった点、深くお詫び申し上げる。予告すると「メタ認知能力の高い読解力強者」に「読み飛ばし」を体験してもらえない可能性があったのでこのような形にした。
なお、これは経験則に過ぎないが、「読み飛ばし」は「文章読解に長け、超高速で文章を理解して脳内に格納する人」に多く起きる傾向がある。
今回「ビエ」を「エビ」にすりかえていたことに読者諸賢が気付かなかったことは、文章読解という高速情報処理作業の必然でもある。いくつか理由がある。一つは、「文章を読むとき人は、数文字を一塊の単語として認識(記号化)し、一文字ずつは確認しない」からである。もう一つは「予測しながら読む」からである。
これらの性質によって、何度も目にする単語は心の中で馴化(じゅんか:慣れ)してしまい、やや不正確な記述がなされていても本来の意味で認識できるのである。SNSで「心のきれいな人」と呼ばれる現象(:タイプミスに気が付かないか、気が付いても指摘しない)である。
これは「わかったつもり」の原因となるひとつの性質である。他にも誤解の元となる「わかったつもり」を助長する原因はあるのだが、それらについては下記の書籍に詳しい。
理解の助けにも妨げにもなる「文脈」
「文脈」と言えば狭い意味では文章の筋道や提示条件などを指すが、広い意味では文章中にはなくても「情報発信者と受信者の間に共有されている情報」も含む。
例えば「総理がウクライナ訪問を検討」という情報があれば、多くの人に「岸田総理がゼレンスキー大統領と面談するためにキーウ訪問を検討している」とわかる。これも「文脈」(=共有された暗黙の知識)と考えていい。
しかし、個人間には往々にして、この「共有されたはずの情報」に差異がある。コミュニケーションギャップが起こる一つの原因は、この「お互いの認識は共通だ」という幻(誤認)である。
「文脈」の存在は深い理解の助けになる一方で、本当は著しい差異があるにもかかわらず「相互に共通の認識がある」と誤認してしまうと、深い理解の妨げにもなる。
対韓外交案件でも、話者(松川議員)と一部視聴者の間には、著しいギャップが存在していたことが推定される。(推定根拠は次の稿で提示。)特に日韓関係修復努力の現状については、少なくとも日本国民側の認識率は決して高くないと思われる。
具体的には、
- 昨年9月の日韓防衛次官級協議で「レーダー照射問題」の解決に日韓ともに努力している事実
- 今年2月の「観世音菩薩坐像の所有権は日本にある」という(韓国)高裁判断が示す通り、韓国世論の風向きや司法界の正常化が進んでいる事実
- 同2月、韓国国防白書で前回「隣国」との表現にとどめていた日本を「価値を共有し、未来協力関係を構築していくべき近い隣国だ」と規定し、「北朝鮮の政権と軍はわれわれの敵」との記述を復活させた事実
これらは、実際にはどこまで知られているか疑問である。
- 6年ぶりに日韓防衛次官級協議 レーダー照射問題で意見交わす
- 盗まれた仏像訴訟「原告が仏像を作った当時の寺と同じかどうか証明できない」…韓国高裁
- 対馬の仏像、日本側に所有権 返還は韓国政府が要検討と高裁
- 日本は協力すべき近い隣国 「北朝鮮は敵」復活―韓国国防白書
上記の事実が示す通り、日韓双方で法の支配という価値観の共有や安全保障上の協力関係を深化させるための努力はすでに開始され、粛々と進行している。しかし「嫌韓」感情に囚われた一部国民にとって、上記3つの情報は不都合(不快)な事実であり、低調な国内報道も背景にあって知らない人も多いと思われる。
松川議員は政策推進者側の重要メンバーである。上記のような公表された事実に加え、公表されていない「深い情報」を保有しているのが自然であるが、一般国民の中にはある理由からそれがわからない人がいる。このギャップの存在は、一体何をもたらすのであろうか。
今回はここまで、「わかるとはどういうことか」について、実際のケースに沿って筆者と読者の間で理解を揃えてきた。これで相互理解のために必要な最低限度の共通「文脈」を持つことができた。
次回は「情報受領者としての国民側の事情」と「情報発信者としての松川るい議員の分析」を進めて、両者の間にあるギャップの実態について調べて行く。
(次回につづく)
【関連記事】
・日米韓連携の試練:「応募工問題」と松川るい議員の外交技術論
・日米韓連携の試練②:松川るい議員の対韓外交論に対するSNS上の反応
・日米韓連携の試練③:松川るい議員が戦っているもの