ペリー艦隊来航170周年:日米関係の来し方行く末を考える①(金子 熊夫)

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外交評論家 エネルギー戦略研究会会長 金子 熊夫

今年は、米国海軍のマシュー・ペリー提督の艦隊が初めて日本に来航して170周年です。浦賀に突然現れた4隻の黒船(蒸気船)をみて、それまで泰平の夢をむさぼっていた日本人はびっくり仰天。翌年再度来航したペリーとの間で日米和親条約(下田条約)が結ばれ、さらにその2年後に来日した初代米国領事のタウンゼント・ハリスとの間で、日米修好通商条約が結ばれ、日本は開国しました(1858年)。

ペリー提督
出典:Wikipedia

ちなみに、この時初代外国奉行としてハリスと交渉した幕臣・岩瀬忠震(いわせ・ただなり)が、東三河出身であることはご存知の通り。

彼自身は江戸生まれ、江戸育ちですが、実父の設楽貞丈は、設楽原(現在の愛知県新城市。長篠合戦の古戦場)を領地とする殿様で、戦国時代から続く名家。忠震は23歳の時岩瀬家の婿養子に。設楽家の代官は現在の新城市出沢の滝川家(現在は豊橋市で滝川病院を経営)。

なお、岩瀬忠震のことについては、「愛知県が生んだ歴史上の大人物 岩瀬忠震と徳川慶勝」(2020年9月29日)で詳しく解説してありますので、是非ご覧ください。

幕末の西洋列強の対日接近

ところで、ペリー来航以前から、ロシア、イギリス、フランスなども日本の近海に頻繁に出没し、虎視眈々と日本との交流の機会を狙っていました。とくにイギリスは、薩摩藩などを通じて倒幕派を支援し、逆にフランスは徳川幕府に接近して、それぞれ影響力を発揮しようとしていました。

両国は、その100年以上前からインド、ビルマ、シンガポール、マレー、ベトナム、カンボジアなどを植民地化し、甘い汁を吸っていました。中国もアヘン戦争(1840〜42年)や太平天国の乱(1850〜64年)以後これら西洋列強の食いものにされ、悲惨な状況にありました。

一方、アメリカはどうかというと、折角ペリーやハリスが努力して列強に先んじていち早く日本(幕府)と通商条約を結び、2年後に初めて訪米した日本代表団とワシントンで盛大な批准書交換式(1860年)まで行ったのに、その直後にリンカーンが大統領に就任し、奴隷制度存廃を巡って南北戦争(1861〜65年)が始まったため、外交問題に時間を割く余裕が無くなりました。その結果、アメリカは、明治維新前後の激動期に対日外交で大きく躓きました。

日米友好関係が対立関係に

そもそもペリーやハリスが日本にやって来たのも、太平洋での捕鯨活動のための補給基地として開港させるのが主目的で、日本に領土的野心があるとか、日本の内政に干渉して属国化しようという意図は少なかったと思われます。

当時米国では、1800年代初頭以来東部から大陸を横断して西部の「フロンティア」(新天地)開発を目指した西進活動が盛んでしたが、カリフォルニアでの金鉱発見・ゴールドラッシュ(1848年)をピークに、西部開拓が一段落したので、次第に太平洋に目を向け始めました。その先兵となったのがペリーやハリスだったというわけです。

伊豆急下田駅で展示されるサスケハナ号の模型
出典:Wikipedia

その後、米国はスペインとの戦争(米西戦争1898年)で勝利した結果、ハワイ、グアムやフィリピン等を手に入れ、太平洋進出の拠点を築きました。

他方、明治維新後の文明開化、富国強兵政策で力をつけ急速に近代国家の仲間入りした日本は、日清、日露戦争での勝利で、軍事大国化への道を突進しました。

そうした日本と米国は、やがて、第一次世界大戦以後、太平洋を舞台に激突し、ついに 太平洋戦争(大東亜戦争)へと展開していくわけですが、このような日米の対立の歴史を振り返るとき、私は、いつも、歴史上の「イフ」を考えてみたいという衝動にかられます。それは、先述の岩瀬忠震に絡むものです。

もし岩瀬忠震が生きていたら

岩瀬忠震
Wikipediaより

つまり、もし幕末に対米交渉を担当し、ハリスとの交流を通じて米国通になっていた忠震が、将軍継嗣問題で井伊直弼に睨まれ、失脚させられることなく、あのまま外国奉行(現在の外務大臣)にとどまり、新生日本の外交の舵取りを任せられていたとしたら、日本はどうなったか、日米関係はどのような推移を辿ったか。

私は、進取の気性と豊かな教養を身につけた当代第一級の政治家・外交官(島崎藤村「夜明け前」)だった忠震なら、薩長の武骨な田舎侍連中(失礼!)と違って、日米協調により、バランスの取れた、もっとスマートな外交戦略を構築しえたのではないか。そうなれば、日本は、「アジアの君子国」(昔そういう言葉が流行った)として、良識ある大国となり、国際社会で重きをなしていたのではないかと想像します。

その意味で、日本は大事な時期に貴重な人材を失ったと嘆かざるを得ません。

薩長主導日本の暴走と敗戦

ついでに言えば、明治以後の日本帝国陸軍は、伝統的に山県有朋、海軍は東郷平八郎、政治は桂太郎、外交は松岡洋右などが幅を利かせ、大きな影響力を発揮しましたが、いずれも薩摩、長州の出身者でした。

岩瀬忠震のような徳川幕府を支えた三河勢は、明治以後、政治・外交・軍事の中枢から外されてしまいました。もし、深謀遠慮主義の徳川家康の伝統を受け継ぐ三河勢が健在だったならば、近代日本の進路は大きく異なっていただろうというのが、三河出身の私の推論です。

ところが、実際の歴史は全く逆で、日本は米国と太平洋の覇権を争って、先制攻撃を仕掛け、ついに完膚無きまでに叩きのめされました。

1945年9月2日、東京湾の米戦艦ミズーリ号上で、降伏文書調印式を司会したダグラス・マッカーサーの脳裏には90余年前のペリーがあったはずで、あの時旗艦サスケハナ号に掲げられていた星条旗が当日ミズーリ号に掲げられていたことはよく知られています(現在はメリーランド州アナポリスの海軍兵学校の博物館に展示されており、私も一度実物を見たことがあります)。

マッカーサーの占領政策の功罪

さて、そのマッカーサーは戦後6年間連合軍最高司令官として占領下の日本に君臨し、日本を「平和国家」に作り変えました。

当初、彼は日本を「東洋のスイス」にしようとして、戦争放棄条項(第9条)を含む新憲法を押し付けました。しかし、僅か2年後に朝鮮戦争(1950〜53年)が勃発し、国際政治状況が米ソ対立、冷戦という形で大きく変わったため、米国の占領政策は一変し、日本は再軍備を求められました。

これに対し、時の吉田茂首相は、憲法9条を逆手にとって抵抗し、「軽武装・経済優先」路線を選択します。このいわゆる「吉田ドクトリン」が戦後77年間日本外交の基本として今日まで踏襲されているわけです。

旧日米安保条約の不備

ちなみに、サンフランシスコで対日講和条約が調印されたのと同じ日に、吉田首相は別途、日米安全保障条約にも調印しました。これは、非武装化された日本を防衛するために、占領終了後も米軍は引き続き日本に駐留し、基地を使用することができるという条約です。

サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂と日本全権委員団
Wikipediaより

しかし、この条約では、米軍が日本に基地を持つ権利を明確に定めたものの、米国が日本を外国の攻撃から防衛する義務を負う点については明確ではありませんでした。

この重大な不備に気づき、ここを改正するために立ち上がったのが、長州閥の流れを継ぐ岸信介首相(昨年夏亡くなった安倍首相の祖父)で、彼は、安保条約改正に反対する学生や労働者の猛烈な抗議運動(安保闘争)を押し切って、1960年に条約改正を達成しました。

当時大学4年生だった私は、友人たちにしつこく誘われましたが、反対デモにはついに一度も参加しませんでした。デモに参加した学生の殆どが条約の本文を読んだこともなく、全学連を中心とする過激な反対運動にはどうしても同調できなかったからです。翌年私は外務省に入省。

「全面講和」と「単独講和」

実は、日本国内では、サンフランシスコ講和条約が締結される前から、「全面講和」か「単独講和」かをめぐって意見が鋭く対立、国論は二分されていました。

例えば当時の南原繁東大総長(カント哲学専門の政治学者)らリベラル派の学者たちは熱心に「全面講和」を主張しました。吉田首相は彼らを「曲学阿世の徒」と呼んで軽蔑していましたが、当時中学生だった私は、わざわざ豊橋市公会堂での南原先生の講演を聴きに行った記憶があります。

「全面講和」というのは、ソ連など共産圏諸国を含むすべての連合国との講和、「単独講和」は自由主義諸国とだけの講和という意味です。前者が望ましいのは確かですが、現実の国際政治状況から見て明らかに理想論であって、日本はすでに米国を中心とする西側自由主義陣営にしっかり組み込まれていたのです。

ソ連(現在のロシア)は結局サンフランシスコ条約調印を拒否したまま、現在も日露間には平和条約が締結されていません。1956年の鳩山一郎首相(鳩山由紀夫元首相の祖父)の訪ソにより両国の国交は正常化されたものの、北方領土問題をめぐる対立は続いており、平和条約締結のめどが立っていないのが現状です。

日本は米国の属国になったのか

岸内閣による安保改正時の反対運動も、基本的に、この「全面講和」か「単独講和」の対立の延長線上に位置付けられるもので、反対派の主張の最大のポイントは、日米安保体制によって、日本は米国の「属国」になった、「向米一辺倒」で外交の自立性を失い、米国の戦争に巻き込まれる惧れがあるから危険だというもの。

こうした考えは、21世紀の現在でも、日本国内には、いわゆる左翼政党や新聞だけでなく、一般国民の中にも根強くあるのではないかと思います。それが最も端的に現れたのは、1960年代のベトナム戦争の時です。

こうした複雑微妙な日米関係の変遷を振り返りつつ、ウクライナ戦争で激動する現下の国際政治状況下で今後両国関係をどう発展させていくべきか、次回でじっくり考えて行きましょう。

(2023年3月27日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)


編集部より:この記事はエネルギー戦略研究会(EEE会議)の記事を転載させていただきました。オリジナル記事をご希望の方はエネルギー戦略研究会(EEE会議)代表:金子熊夫ウェブサイトをご覧ください。