昭和天皇若き日のイギリス訪問は歓迎されたのか?

訪英時、ロイド・ジョージ英首相と(1921年5月)
出典:Wikipedia

昭和天皇は、皇太子時代とご在位中にそれぞれ英国をはじめとする欧州諸国を訪問されている。このときに当然のごとく大歓迎されたといわれているのだが、現実はそんな単純なものでなかった。

最終的には大成功だったのだが、そんなすんなりいったものではなかった。皇室外交というと、大歓迎されたという報道ばかりがされるが、そういうのは、影で行われている関係者の苦悩や必死の努力を無視するものだし、国民が安直な期待を皇室外交について持つことにもなっていると思うので、そのあたりの裏事情を、「英国王室と日本人:華麗なるロイヤルファミリーの物語」(小学館・篠塚隆氏と共著)で書いたことを一部使いながら説明しよう。

皇太子外遊は、大正天皇の皇太子時代にも話題になって、ご自身も旅行好きでおられたし、世界旅行の歌など愛唱され強く希望されていたといわれる。しかし、明治天皇は皇太子が極端な西洋かぶれになることを心配され実現しなかった。

昭和天皇は、皇太子時代の1921年3月3日から9月3日までの6ヶ月間にわたって欧州各国を訪れられた。おそらく、読者はもう少し年長になられてからのことだと誤解していると思う。

昭和天皇は、小学校は乃木希典が校長をつとめる学習院に通われたのち、御所内に学問所を設置して各分野の一流の教師が教育に当たった。外国語はフランス語だった。だが、この御学問所での教育はかなり問題が多かったようだ。

なにしろ、1919年5月に開かれた晩餐会で、枢密院顧問官・三浦梧楼が東宮太夫・浜尾新「皇太子は何もお話されず、何かお話を申し上げてもほとんどご回答なかった」「箱入り教育で近代的な君主としていかがなものか」と詰問する騒ぎになった。

原敬首相も、浜尾を呼び出して注意し、11月には山縣有朋は「真に憂慮すべき状態」だしてこの劣悪な教育環境から切り離すためには、外遊しかないということになった。

宮中でも海外経験者は同様の意見で、侍従でオックスフォード大学に留学していた松平慶民らも同意見だった。また、山縣は伝統的な学問を深めるより、語学学習、軍事教練も重視し、多くの人に会わせ、外遊もさせるべきとした。

貞明皇后は天皇の健康状態と外遊への不安から反対していたが、松方正義や西園寺が元老を代表して皇后の説得にあたり、原首相やの皇族たちも説得に努めた結果、松方正義が天皇・皇后両陛下の最終的な了解を取ることに成功した。

皇太子は軍艦に乗船され、語学、スピーチ、ナイフとフォークの使い方も怪しいという状態だったテーブルマナーを習得され、柔道で身体を鍛えられた。

そのかいがあって、ロンドンにつかれるころには、「玉音朗々、まさ四筵を圧するの感慨」で応じられたと書記官として同席した吉田茂が感激するほど短期間に成長した姿を見せられた。

イギリスでは、ジョージ5世が率先して歓迎してくれた。というのは、ジョージ5世は皇太子になる前に訪日して大歓迎されていたからである。

日本への英国王族の最初の訪問は、明治二年にビクトリア女王の次男エディンバラ公アルフレードが世界一周途中に日本に来たときだ。この王子を当時の日本は、国賓として超豪華な接待をした。

この歓待は、ヨーロッパでも話題となり、多くの国のプリンスたちがやってきて日本の外交力となった。のちの英国王ジョージ5世も、海軍の艦船に乗船して、1881年に来日、龍の入れ墨を施したりした。

つまり半世紀も前のご接待が生きたのである。それは、私が両陛下が訪英されるより先にチャールズ国王に来ていただいて大歓迎をし、そのあと訪英することが賢明だと強く主張する由縁だ。そういう準備無く訪英などすると参勤交代みたいなことになってしまう。

このとき、吉田茂は、国王が「近親の御待遇」で日本の皇太子を扱われているといい、実際、自室で休んでいる皇太子を国王は予告なしに訪れ話し込んだりしてくれたが、それにはしかるべき伏線があった。

その後、皇太子はオックスフォード大学で講義を受けたり、スコットランドの大貴族の荘園を訪れて英国貴族の生活を堪能したりされた。その後、昭和天皇は、欧州各国をまわられたが、土産には大正天皇にはステッキ、皇后にはネックレス、婚約中の良子女王には手鏡で、自分はナポレオン像と庶民と一緒に乗車を経験したメトロの切符を大事にされた。

昭和天皇は、1970年の記者会見でも「籠の鳥のような生活から自由を経験し、それが今も役立っている」と語られたが、これは、それまでの帝王教育が昭和天皇にとって不満足なものだったことを示している。

ただ、このとき、原敬や山縣有朋が望んだ米国訪問が大正天皇の病状もあって実現できなかったのはなんとも残念だ。もし、このとい、訪米しておけば、米国の対日感情は改善しただろうし、太平洋戦争が避けられたかもしれないのだ。

戦後の訪欧については、回を改めたい。