2017年、ロンドン在住で日本出身のカズオ・イシグロ氏が、ノーベル文学賞受賞といううれしいニュースがあった。
次は何を書くのだろう?と世界中が注目した。SFもの「クララとお日さま」(2021年)は高く評価され、今度は黒澤明監督の映画「生きる」を英国の物語にした「生きる/LIVING」の脚本を書いた。イシグロファンにとっては、うれしいニュースばかりが続いている。
振り返ってみると、文学賞の発表当時、在英邦人としては「日本」、「日本人」という枠でイシグロ氏を紹介する日本のメディア報道に少し違和感あったものだ。
その居心地の悪さはどこから来たのだろう?
英国に「カズオ・イシグロ」という名前の日系人作家がいることを知ったのは、1980年代の後半だったように思う。
この頃、ある日系米国人(日系3世)の友人がいて、別の日系米国人の日本での体験をつづった本を借りたことがあった。同時期に英国にも日系の作家がいることを知り、カズオ・イシグロ氏の本を手に取った。「日の名残り」(1989年)の英語版であった。
当時は日本に住んでいたので、なぜ翻訳本でなく英語版だったのかは覚えていないが、借りた本が英語だったので、こちらも英語で読んで見ようと思ったのかもしれない。
「日の名残り」のユーモア
1950年代が舞台となった「日の名残り」は、あるお屋敷の年老いた執事スチーブンスが旅に出るところから始まる。今は米国人の主人に仕えているが、以前は英国人の下で働いていた。
元主人は対ドイツ融和策を支持した人物であった。1930年代、英国の上流階級の中にはナチス、ヒトラーを好意的に受け止める人が少なからずいた。大手新聞の持ち主でヒトラーと親しい関係になった人物もいる。スチーブンスの元主人のような人物は、当時はいかにもいそうなタイプだった。
しかし、ホロコーストを行ったナチスの記憶がある現在からすれば、とんでもない、相当に「ずれた」人物である。そんな元主人に対する敬意を忘れずに抱くのが主人公の執事だ。主人の実像が見抜けずに敬意を抱き続けるスチーブンスの姿はある意味では滑稽だし、もの悲しくもある。
数日間の旅の中で、スチーブンスは自分の過去を振り返る。お屋敷で開かれた、重要人物が参加した会議、世界の将来がここで決まるという自負の下で働いていたこと、父に冷たくする自分、女中頭にいだくほのかな恋心。
ページをめくる度に、私はその華麗な文章を堪能するとともに、何度も笑った。
借り物の洋服を着て大真面目に旅に繰り出す老執事の格好を想像した。英国イングランド地方の田園光景の自画自賛の様子がいかにも古風であったり、いかにも愛国的であったり。
ストレートに「老執事が旅をしている」と読むこともできるのだが、古ぼけているだろう衣類や(おそらく)慎重に運転する様子が笑いを誘った。
ノーベル文学賞の発表をしたスウェーデン学会の人も言っていたが、カズオ・イシグロ氏の小説にはユーモア小説の大家P.G.ウッドハウスを思わせるおかしみがある。
「日の名残り」は、一見したところ、ジェーン・オースティン(「高慢と偏見」、「エマ」など)をはじめとする英文学の伝統に沿って、英国生まれの英国人が書いたようにも見える。「英国人だったら、こう書くだろうな」という感じがあった。
しかし、1950年代のことを1980年代に書いているわけだから、「かつてのイングランド人らしさ」のパロディーにもなっているように思えた。
ウッドハウスの流れを汲んでとぼけたユーモアをあちこちに入れながら綴ったこの小説は、私にとって、忘れられない作品の一つだ。
後の映画版ではこのユーモア感がすっかり消えているようで、残念な思いがした。
かつては、日本らしさを見せてこなかった
日本の雑誌「Switch」が1991年1月号でイシグロ氏の特集をしていた。早速購入し、じっくりと読んでみたが、結論として分かったのはイシグロ氏は日本とはずいぶんと離れた場所にいる、ということだった。
今この雑誌が手元にないので記憶を頼りに書くが、日本あるいは日本人らしさを求めて記事を読んだところ、インタビューは英語で行われたものを日本語にしており、彼自身に日本の記憶が強くはないようで、がっかりした。
日本で生まれ、5歳で英国に来てからは日本人の両親の下で育ったとはいっても、現在は英国人の妻がいて、子供がいて、英語で小説を書いているイシグロ氏。彼は「日系英国人」であって、私が期待するような「日本人」ではないのだと思ったものである。
その後、イシグロ氏の本を継続して買ってきたが、日本とはあまり関係ない人であることが段々分かって来て、イシグロ氏と日本をほとんど結びつけることがなくなった。
新作が出るたびに英メディアはイシグロ氏を紹介してきたが、イシグロ氏と日本を特に結びつける論調はあまりなかったように思う。イシグロ氏は堂々とした、英国の、英文学の作家として評価されてきた。
英国の中でもロンドンは移民の出身地が多彩で、「日系英国人」であれば、「英国人」の方が重要視される。「日本生まれ」はその人を定義するほんの小さな要素に過ぎなかった。
「日本語は話せない・理解できない」ということをイシグロ氏自身がごくたまに英メディアで言っていたせいもあって、イシグロ氏=日本人とは思えなくなっていた。
「日本」、「日本人」で切り取ること
2017年10月5日、ノーベル文学賞の受賞者が発表されたとき、私はドイツにいた。イシグロ氏の受賞のニュースはネットで見るだけになったが、日本の報道陣がイシグロ氏の自宅に殺到していること、「日本」、「日本人」が報道の中心になっていることに驚いた。在英邦人からすればイシグロ氏は英国人であるし、何故ほんの5歳まで住んでいた国やその文化を強調するのかな、と思った。
また、イシグロ氏が自分と日本とを結びつけて評されることを好んでいないということも前にどこかで読んだ記憶があって、「イシグロ氏にとって本意ではないのでは」といらない懸念までした。
驚きは違和感、不快感に変わった。というのも、イシグロ氏の受賞で「日本出身」、「日本人であること」に焦点を当てるのは排他的な印象も与えたからだ。
「排他的」という表現には説明が必要かもしれない。
数年前、政治家蓮舫氏の二重国籍問題があった。二重国籍自体が問題視されたと言うよりも、政治家としての蓮舫氏が国籍の取り扱いを明瞭にしなかったということが問題視されたのだという見方もあるが、二重国籍が許される国英国に住む日本人からすると、論争自体が息苦しい状況に見えたものである。
「ハーフ」とは・・・
また、筆者は、両親のうちで一人の親が日本人、もう一人が外国人という夫婦から生まれた20代と30代の若者と日本で話す機会があった。両者ともに自分たちのことを「ハーフ」と呼んでいたことに衝撃を受けた。
「半分ずつの血が入っている」ということなのであろうが、何故人を「ハーフ」と「非ハーフ」に分けなければならないのか、英国に住んでいると、一種の蔑視表現のようにさえ聞こえてしまう。「二重国籍」という言葉への負のイメージ、自分を「ハーフ」と呼ぶ若者たち。「(ピュアな)日本・日本人」への執着が見えるように思った。
こうしたさまざまな文脈があって、イシグロ氏のノーベル賞受賞の初期の報道には、メディア側が必死で「日本・日本人」を探す視線を感じてしまった。「カズオ・イシグロ=英国人」ということで、なぜ満足できないのだろうか。
意外な日本とのつながり
ところが、日本のメディア報道によって、在英邦人たちは新しい現実を知った。
イシグロ氏が「自分の中には常に日本がある」、「ものの見方や世界観の大部分は日本人」と語りだしたからだ。
もしそうであるなら、イシグロ氏が日本との関係をこれまでに特に強調していなかったのは英メディアによる報道だったせいもあるのかもしれない。英国人の記者相手にわざわざ「自分の中には常に日本がある」というはずはないからだ。
日本が彼にとって重要な位置を占めるのは確かだ。イシグロ氏自身がそう言っている。2017年当時、BBCのインタビューの中でも、「日本人であることは人としても作家として重要だった」と述べている。
とは言え、出版社での会見ではドイツのメディアに「日本人の作家か、英国人の作家か」と聞かれ、「ただの作家だ」とも答えている。
英国風ユーモアがいっぱい
受賞のインタビューの際のイシグロ氏は英国流のユーモアを連発した。
例えば、「ノーベル文学賞受賞なんて、最初は冗談だと思いましたよ」、「BBCが電話をくれたので、本当かな、と。僕はBBCは信じるんです、古いタイプの人間だから」、「こんなに人が集まるんだったら、今朝髪を洗えばよかったな」。真面目なことを言いながらも、あちこちにちょっとした軽口を入れて、ほほ笑む。
受賞発表の日は妻のローナさんが髪を染めることをようやく決意した、「イシグロ家にとって非常に重要な日だった」という説明もあった。もちろん、ノーベル賞受賞の知らせの方が妻が美容院で髪を染めることより重要に違いない。
一連の受け答えを通じて、改めて思った。その軽口のたたき方、英語の発音、「自分は大したことがない人間で、そんなたいそうな賞をもらうほどじゃない」という、徹底した「自己卑下(self-deprecation)」の精神をベースにした態度など、この人は本当に英国流なのだな、と。
こういう姿を見ていたので、在英邦人はイシグロ氏を「日本・日本人という枠でくくるなんて、残念」と思ったわけである。
しかし、実は、最終的には本人が言うように、「ただの作家だ」ということであろう。どちらの国の一方に属するというよりも、現在の自分がそのままカズオ・イシグロ氏という解釈でよいのである。
受賞後の英メディアは、イシグロ氏が「その作品もその人物も気取らない・威張らない人」であることを繰り返して伝えた。作家といえばエゴが強いのが常識だが、「そんなエゴが一切ない」という表現も見かけた。落ち着いた、地に足の着いた大人なのだろう。
英国版「生きる」を見てみた。「日の名残り」にも通じるような、イシグロ氏らしいふわっとした優しさが出ているような気がした。
(ウェブサイト「論座」が7月末で閉鎖されることになり、筆者の寄稿記事を補足の上、転載しています。)
編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2023年5月1日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。