インドネシアの知られざる歴史と両陛下訪問の意義

インドネシア・ジョコ大統領夫妻と会見に臨まれる天皇皇后両陛下
NHKより

両陛下がインドネシアを公式訪問された。エリザベス女王の葬儀出席を別にすれば、ご即位のあと初めての親善訪問にこの国を選ばれたことは、インドネシア国民をおおいに喜ばした。

また、7日間という異例の期間に渡る長さであった。皇后陛下の体調については予想が難しいので、正式発表が直前になったとか、記者会見に出席されない、晩餐会でなく午餐会だったとか、唯一の地方訪問であるジョクジャカルタ行きなど多くの行事は陛下単独ということになったが、国内公務で陛下単独を避けるために、期間や訪問先を縮小しているのに比べて賢明だったと積極的に評価したい。

これからは、国内の地方行幸なども陛下単独の行事を増やし、皇后陛下はゆっくりお休み頂いたらいいと思う。ただ、それが令和スタイルだと宮内庁や陛下が説明され国民の理解を求められたらもっといい。

ところで、インドネシアの歴史というと、日本人の知識は戦争の時から始まってしまう。そこで今回は、「民族と国家の5000年史 ~文明の盛衰と戦略的思考がわかる」(扶桑社)にも書いてあるが、「365日でわかる世界史」(清談社)の関係箇所を抜粋してお届けしよう。

ジャワ島中部に巨大な仏教遺跡でアンコールワットと並ぶ文化遺産とされるボロブドゥールを築いたシャイレーンドラなどが8~9世紀ごろ栄えたりした。 だが、 イスラム教の浸透や西洋人の来航のなかでインド的文化のもとで栄えた国々は内陸部に押し込められた。そんななかで、土着化したヒンドゥー文化の伝統は現代のバリ島に受け継がれ世界中から観光客を集めている。

最初にやって来た西洋人はポルトガル人だが、1602年にオランダ東インド会社がジャワ島に進出し、1619年にはジャカルタを占拠して強固な城塞を築き、バタビアと改名し、18世紀にはジャワ島の全域を支配した。

英国も進出してきたが、セラウェシ島とニューギニアの中間にあるアンボイナで、1623年におこった香辛料貿易を巡るオランダ東インド会社とイギリス東インド会社の衝突事件でオランダに敗れて撤退した。このとき、日本人傭兵も殺されている。

インドネシアでは共通して使える言葉がなかったことから、比較的広域に浸透して交易に使われていたマレー語を基礎にインドネシア語が作られローマ字で表記されるようになった。ただし、日常語として話す人の割合は少ない。インドネシアは「インド群島の国」といった意味の造語で、20世紀になってシンガポールで使われ始めたものだ。 独立運動のなかで、「インドネシアという一つの祖国、民族、言語」が確認され、日本の敗戦2日後にされた独立宣言でも国名として採用された。

オランダは再植民地化を策動したが、1949年のハーグ円卓会議で独立が承認され、独立後の1955年には、第1回アジアアフリカ会議(バンドン会議)を主催して、スカルノは「第三世界」、「非同盟国家」のリーダーとして高い評価を得た。 だが、共産党を重用しすぎ、クーデター騒ぎののちスハルト少将が権力を握った。スハルトは典型的な「開発独裁政策」で反対派を抑圧しつつ、経済成長をもたらした(1998年に失脚)。

オランダはインドネシアへの郷愁を隠さず、「ライスターフェル」という20種類ほどもの料理をテーブルに並べてそれを中華料理風につついて食ベるものが名物料理になっているほどなのに対して、インドネシア人はオランダに対する嫌悪感を露骨に示す。インドネシア料理ではナシゴレンという甘辛く魚醤で味付けしたチャーハンが人気。

男性の正装としてバティックというろうけつ染めのシャツがある。絹かポリエステルである。

2019年にカリマンタン(ボルネオ)への首都移転計画が発表された。カリマンタンはオラウータンの生息でも知られる。

なお、ジョクジャカルタでは、陛下が単独で、スルタンのハメンクブウォノ10世の晩餐会に出席された。インドネシアではほかにも世襲のスルタンがいたが、独立戦争に協力的でなかったので追放されたが、ここだけは、独立に協力的であったため、インドネシア独立時にジョグジャカルタのスルタンとして特別な地位を与えられ、世襲制の特別州知事として紆余曲折はあるが継続している。