家永の主張は続く
更に家永は、37年6月の乾岔子島事件は全面中国戦争突入(翌月の盧溝橋事件を指す)に先立ち、また38年7月の張鼓峰事件は漢口作戦に先立ち、それぞれソ連の動向を探るために日本軍が行った「威力偵察」だったとする「西村敏雄回想録」(関東軍参謀・最終階級少将)の記述を引き、「日本軍の側からソ連軍に仕掛けた局地戦であったことは、西村回想録が虚言でない限り、否定の余地がなかろう」と断じる。
(前回:日本が先に「日ソ中立条約」を破ったと主張する日本人学者(前編))
39年夏のノモンハン事件についても、家永は『朝鮮戦争』(洞富雄)の「各方面から推理してみた結果、ノモンハン事件は、関東軍司令部が、満・蒙間の歴史的境界線はどうであろうと構わず、満洲国の領土を強引にハルハ河の線まで押し広げようとして計画的に引き起こした軍事行動であったということを、ほぼ想定し得たと思う」との記述を根拠に、「関東軍の積極的攻撃意図が事件の発端となったことは、洞の推察の通りであったろうと思われる」と述べる。
そして日本は、ノモンハン直後の8月23日に独ソ不可侵条約が結ばれたことに呆然とし、41年4月に日ソ中立条約を締結したが、同年6月22日、ドイツが独ソ不可侵条約を破ると、支配層から「この機に乗じてドイツと呼応してシベリアを攻略すべきとの意見が強く主張され、南進を先とする主張と衝突して種々の経緯があったけれど」、7月2日の御前会議で「即時対ソ開戦論を抑えながら、解除条件付開戦意思が公式に決定された」と、関特演までの経緯を総括している。
「その後」についても家永は、「陸軍の期待に反してドイツ軍の対ソ作戦は進捗せず極東ソ連軍の大幅な西送は行われなかったし、日本も対米英開戦の方向へ傾斜していって到底ソ連領攻撃を実施する余裕を失ったため、「関特演」から実戦への意向は実現を見ないで終わった」が、それは「単に状況が有利とならず開戦の機会が到来しなかった結果に他ならない」と述べている。
家永への反証
これら家永の主張に反証する資料には事欠かないが、ここでは、それまでの研究を覆した『ノモンハン事件の真相と戦果-ソ連軍撃破の記録-』(小田洋太郎・田端元:有朋書院02年刊)と防衛研究所主任研究官花田智之の報告書『ソ連の極東戦略と国際秩序』(20年)、講談社学術文庫の『パル判決書』(東京裁判研究会)と『私の見た東京裁判』(冨士信夫)及び『考証 日ソ中立条約公開された-ロシア外務省機密文書-』(スラヴィンスキー。岩波書店96年2月刊)を用いて、検討を加える。
東京裁判で46年10月8日から21日まで行われた、ソ連代表ゴルンスキー検事による日本の対ソ共同謀議の検察側立証は、04年の日露戦争での旅順における露国艦隊攻撃と真珠湾攻撃は「日本軍の一貫した観念」だとして始まり、18年のシベリア出兵に触れた後、22年の極東ソビエト共和国に対する日本の政策と31年の満洲国建国時の侵略的意図を同列視することを裁判官に要請した(パル判決書)。
そして起訴状の包括期間を、
① 28年から満州占領まで
② 31年から36年まで
③ 36年から39年の欧州戦争勃発まで
④ 日本降伏まで
の4期間に分けて、日本の対ソ侵略行動を縷述した。花田報告書は、この期間の日ソ両国の政策や両国間の出来事を次のように詳しく述べている。
18年8月:<日>シベリア出兵及び北樺太での保障占領
22年10月:<日>シベリアから撤兵
25年1月20日:<日ソ>日ソ基本条約(北京条約)締結、国交樹立、ポーツマス条約の有効性再確認、漁業・天然資源での諸合意
29年10月:<ソ>中東鉄道をめぐる張学良軍との奉ソ戦争(特別極東軍を編成)
31年9月18日:<日>満洲事変
32年2月16日:<日>満洲国建国
32年4月:<ソ>極東海軍設立 (35年1月太平洋艦隊に改編)
33年:<ソ>第2次5カ年計画⇒特別赤旗極東軍の大幅な兵力増員・技術装備強化・大規模軍事建設
35年5月17日:<ソ>極東軍管区設立。基幹部隊は特別赤旗極東軍
35年5月17日:<ソ>ザバイカル軍管区設立(諸部隊がノモンハン事件に参戦)
36年3月12日:<ソ>ソ蒙相互援助議定書締結
36年4月:<ソ>モンゴル領内へのソ連軍駐留開始
36年11月25日:<日>日独防共協定締結
36年12月:<ソ>西安事件⇒中国国内の国共合作により抗日強化。日中戦争前にソ連の極東戦略として中ソ関係の安定化が具体化
36年末のイルクーツク以東のソ連軍兵力: 29万人以上(32個師団)でソ連軍全体の4分の1以上。兵器:戦車3,200両、大砲3,700門、重爆撃機300機、軽爆撃機345機に増強され、 関東軍を物量で圧倒。満ソ国境防衛のため、国境地帯に多数の小型要塞トーチカ(陣地)の建設が進められる。
37年3月8日:<ソ>「ソ連共産党中央委員会政治局の中国問題に対する決議」⇒集団安全保障に関して以下を採択。
- 中ソ不可侵条約に関する交渉再開
- 太平洋地域協定の締結問題で中国国民政府(南京政府)が主導権を示すならばソ連の支援を約束
- 国民政府に対し2年以内に5,000万メキシコ・ドルのクレジットを6年間供与し、航空機、戦車、軍需品の売却に同意。錫、タングステン、茶の受領で支払いを補填。
- ソ連領内で中国人パイロット及び戦車兵を養成することに同意
- 蔣介石の息子(蔣経国)の同意に基づき中国「訪問」に承認
37年8月21日:<ソ>中ソ不可侵条約の締結
38年7月1日:<ソ>極東方面軍編成
38年7月29日~8月11日:張鼓峰(ハサン湖)事件
39年5月11日~9月16日:ノモンハン事件(ハルハ河戦争)
39年8月23日:<ソ>独ソ不可侵条約締結、
40年9月27日:<日>日独伊三国同盟
41年4月13日:<日ソ>日ソ中立条約締結
30年代は日ソ間・満ソ間での満蒙権益確保をめぐる係争は間断なく続けられ、防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍〈1〉』によると満ソ国境紛争は次のようだ。
32年〜34年:152回
35年:176回(ハルハ廟事件など)
36年:152回(長嶺子事件など)
37年:113回(乾岔子島事件など)
38年:166回(張鼓峰事件など)
39年:159回(ノモンハン事件など)
家永は、「45年8月までソ連=ロシアによる日本国内侵略は行われていない」と地域を「日本国内」に限定してゴマ化す。が、満蒙に目を転じれば、30年代のソ連による極東地域での軍事増強振りは上記のように眼を見張るばかりであって、日ソ・満ソ間での係争も2〜3日に一度の頻度で発生していた。
家永が「西村回想録が虚言でない限り、否定の余地がなかろう」とし、「日本軍が行った威力偵察」と例示している諸事件について、『ノモンハン事件の真相と戦果』は次のように述べている。
37年6月の乾岔子島事件の発端は、「河川を国境とする場合には航行路の中央線」を国境とするとの国際条約をソ連が一方的に破り、乾岔子・金阿穆河両島に上陸して住民を追放、満州国に近い河川中央までを自領として艦艇航行を始めたことにより引き起こされた、家永の主張とは真逆の事件だった。
38年7月の張鼓峰(ハサン湖)事件は、従来の国境線(ロシア参謀本部地図1911年版、東京裁判でも1860年の北京条約その他とその付近から確認された)をソ連が越境侵入し、張鼓峰と沙草峰に陣地を作ったもの。リシュコフ大佐が歩いて越境亡命したことから、ソ連は国境線の強化を策したが、7月6日に交わされた張鼓峰占領の暗号電報を日本は解読していた。
ノモンハン事件について、冨士信夫は『私の見た東京裁判』の中で、ブレークニー弁護士が担当した弁護側立証を「正に国境線に始まり国境線に終わる、の観があった」としている。つまりハルハ河東側で行われた戦闘について、ハルハ河が国境線なのだから、日本側はソ連領に侵入していないとし、他方、検察側は、当時の国境線はハルハ河の東側にあるので、戦闘はソ連領内で行われたというのである。
検察側は、ソ連側が日本軍山縣支隊から鹵獲した、国境線がハルハ河東側に引かれた地図を証拠として示した。が、その地図は、余白の説明書きから山縣支隊が戦闘中にソ連軍から鹵獲したものだったと判明、むしろハルハ河東側に国境線が引かれているのは当然のことだったと明らかになった。47人の検事団がもの笑いになった種の一つか。
ブレークニーは日本の対ソ軍備に関する立証でも、それは強大な極東ソ連軍の脅威に対する防衛に過ぎないとし、また検察側が口述書だけを提出し、弁護側の反対尋問に召喚されない口述人を「鉄の扉の後方にあって、背後から銃剣を突き付けられている」と表現して物議を醸した。が、裁判所は口述書について、処刑済の白系露人2名のものは無視、死亡した日本人3名のものは採用、それ以外の存命日本人は3ヵ月以内に召喚することとした。
斯様に、家永が「西村回想録」や洞の著書から導いた推論には、かなり信用し得る反証がそれぞれに存在する。加えて、『戦争責任』には上述した様な30年代のソ連側の軍備増強についての詳しい研究や記述が、ソ連崩壊前に書かれた(85年7月刊)ということを割り引いても、余りに乏しい。
『ノモンハン事件の真相と戦果』は、彼我の人的損害を以下の様に書いている(航空機と戦車の性能も日本が優っており、損害もソ連側が大幅に甚大だったことが記されているが、ここでは省略する)。
ソ連側は、ソ連側の損害9,284人、日本側の損害52,000~55,000人と発表したため、日本軍の大敗と信じられたが、これはスターリンの粛清を恐れた将軍たちが・・ソ連の損害は僅少と報告したからである。しかし実情は全く違う。ソビエト体制の崩壊による公文書公開でソ連側の大損害が判明した。
(後編に続く)