大河ドラマ『どうする家康』解説③:鉄砲3段撃ちはあったか(前篇)

呉座 勇一

NHK大河ドラマ『どうする家康』で先日、長篠合戦が描かれた。いわゆる典型的な「三段撃ち」は描かれず、2023年6月14日にNHKで放送された「歴史探偵 長篠の戦い」で提示された仮説「先着順自由連射」を想起させる描き方になっていた。

本連載では、鉄砲三段撃ちに関する研究史を2回に分けて紹介したい。

『長篠合戦図屏風』の一部(徳川美術館蔵)
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長篠合戦における織田・徳川連合軍の勝因は、織田軍による「鉄砲3千挺の3段撃ち」である、と戦前から考えられてきた。弾込めに時間を要する火縄銃の欠点を補うため、1000挺ずつ3列に分けて交替で装填・点火・発射を行うことで、間断のない連続射撃を可能にした、というのである。

この通説の元になったのは、日本陸軍の参謀本部が編纂した『日本戦史 長篠役』である。同書によれば、織田信長は全軍の銃兵1万から3000人を選抜し、佐々成政・前田利家ら5人の武将に預けて指揮させたという。

そして信長は「勝頼は勇猛だが単純な男だ。武田軍は騎馬戦を好む。だから柵によって武田軍の進路を遮り、これを銃で殲滅する。しかし武田軍が突進してきた時、あわてて発射してはならない。ぎりぎりまで近づけて、1000挺ずつ代わる代わる発射せよ」と指示した、と解説する。

徳富蘇峰の『近世日本国民史』は『日本戦史』の記述を完全に踏襲している。すなわち、「全軍の銃手一万人の中より、三千人を選抜し、佐々成政、前田利家、塙直政、福富貞次、野々村幸久らをして、その司令たらしめた。彼はあらかじめ甲軍の長所は、騎馬突撃にあるを知り、これを用うるに所なからしむるの術を講じた。彼いましめて曰く、敵騎前進するも、にわかに発射するなかれ、その柵前に来たり迫るに際し、千挺ずつ代わる代わる放てと」とある。

蘇峰は「馬防柵」と三段撃ちを絶賛し、「信玄流の軍法は、信長の斬新なる戦術に比すれば、時代遅れとなった憾みがある」と評している。

歴史学界の評価も同様である。東京帝国大学史料編纂掛の渡辺世祐は、「長篠の戦」(『大日本戦史』第3巻、三教書院、1938年)で、『日本戦史 長篠役』を踏まえて、信長の「鉄砲利用の新戦術」として三段撃ちに言及している。

戦後もこの見解は長く引き継がれた。最も権威のある日本史百科である『国史大辞典』でも、長篠合戦について「鉄砲の組織的活用の画期がこの戦いであった。信長は鉄砲隊を三段に重ねて、第一列の兵は射撃のあと後ろにさがり、第二列、第三列が撃つ間に弾を込めるというように、連続的に火縄銃を使用する戦法をあみだした。この戦法の大成功により、武田氏に代表される騎馬中心の戦法から鉄砲主体の戦法へと戦の主流が移った」(山本博文氏執筆、1989年)と記されている。

この「三段撃ち」に初めて疑義を呈したのは、在野の歴史研究家である藤本正行氏の1980年の論考「長篠の鉄砲戦術は虚構だ」である。その後、『信長の戦国軍事学 戦術家・織田信長の実像』(JICC出版局、1993年、のちに『信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学』と改題して講談社学術文庫から刊行)で、「三段撃ち」は虚構であると徹底的に批判した。

藤本説の第一の特徴は、戦史・軍事史の該博な知識を活用して、通説が軍事的合理性を欠いている点を指摘したところにある。藤本氏は言う。

戦場が平坦でないことなどを考えれば、彼らが織田軍の銃隊全員の射程距離内に同時に入ることなどとうてい考えられないではないか。現実には、武田軍は合戦の常道に従い、特定の場所に攻撃を集中するであろう。そうした場合、攻撃の集中した場所からは射程外になる銃手や、地形的にその場所を見通すことができない銃手が出てくるはずである。だが、彼らも一斉射撃の列に加わった以上、敵に届かないとか敵が見えないからといって、勝手に射撃を止めるわけにはいかない。無駄弾になることを承知のうえで、発射の号令にあわせて引き金を引き、つぎの列と交替しなければ、全体が混乱状態におちいるからである…(中略)…だいいち、いったい誰が、どの位置から、どんな方法を使えば、三千もの銃手に一斉射撃の号令を送り続けることができるであろうか。

と、従来言われてきた「新戦術」の不合理・不経済・非現実性を指摘している。

この点については、藤本氏と同時期に長篠合戦の再検討を始めた鈴木眞哉氏も、目の間に敵がいる、いないにかかわらず、千挺ずつ絶え間なしに発砲を続けて、貴重な火薬や弾丸を浪費する必要など全くない、と同意見を述べている。

さらに藤本氏は、京都長岡の細川藤孝や奈良の筒井順慶ら後方の織田方部将が鉄砲隊を派遣していること(「細川家文書」・『多聞院日記』)に注目している。しかも『細川家記』によれば、藤孝が派遣した鉄砲足軽は、塙直政の鉄砲隊に組み入れられたという。

ここから浮かび上がることは、織田信長が佐々・前田・塙らに預けた鉄砲隊は、長篠合戦に参加しない家臣たちから銃兵を引き抜いて臨時に編成した寄せ集めの部隊であるという事実だ。

西洋でも発射に時間がかかり命中精度が低い先込め銃の時代には隊列を組んだ多段撃ちが行われていることは事実だが、多人数が円滑に行うには一定の訓練を要したことは、鈴木氏が具体的な事例を挙げつつ指摘している。集団訓練を受けたことのない部隊に千挺ずつの一斉射撃を行わせることは不可能だ、と藤本氏・鈴木氏は主張している。

藤本説の第二の特徴は、太田牛一の『信長公記』を重視している点である。藤本氏は、信長の一代記として信頼性の高い『信長公記』に、三段撃ちの記述が全く見えないことに注意を喚起する。「新戦術」の初出は『甫庵信長記』であるという。

『甫庵信長記』は、江戸時代の儒医・小瀬甫庵が『信長公記』を元に、創作を交えて著した信長の一代記である。同書によれば、織田信長は「諸手のぬき鉄砲」(部将たちの各部隊から引き抜いて集めた鉄砲隊)三千挺を佐々らに預け、「敵馬を入れ来たらば、際一町までも鉄砲打たすな。間近く引き請け、千挺ずつ放ち懸け、一段ずつ立ち替わり立ち替わり打たすべし」と指示を出したという。3000挺の鉄砲を1000挺ずつに分け、「一段ずつ」撃てと指示しているから、まさに三段撃ちと言えよう。

その後、貞享2年(1685)頃に遠山信春が『甫庵信長記』を増補改訂して『織田軍記(総見記)』を著しているが、長篠合戦における信長の指示を「千挺ずつ三かわりにして敵をねらい」と記しており、『甫庵信長記』の記述を踏襲している。同書以後は、長篠合戦に紙幅を割く軍記類のほとんどが三段撃ちを盛り込んでいる。参謀本部の『日本戦史 長篠役』は、江戸時代の軍記類の内容を無批判に継承したにすぎないのである。

まして「鉄砲隊を三段に重ねて、第一列の兵は射撃のあと後ろにさがり、第二列、第三列が撃つ間に弾を込める」(前掲『国史大辞典』)といった三段撃ちの具体的なやり方は、『甫庵信長記』や『織田軍記』、さらには『日本戦史 長篠役』にすら記述されておらず、『日本戦史』以後に増幅された内容であることを藤本氏は明らかにした。鈴木眞哉氏が推測するように、ヨーロッパの銃隊戦術(輪番射撃)の知識を持つ者が類推で付け加えたのが初出であろう。

けれども、長篠の現地を歩いてみれば分かるように、主戦場だったと推定される水田地帯はすこぶる狭い。歩数にして100歩にも満たないようなところに何重にも馬防柵を設けたとしたら、銃隊を三列に並べる空間など残らないと鈴木氏は述べている。発射したら後ろに引き下がり、次の列が前に出て撃つという、もっともらしい「新戦術」は、現地の地形を無視した「机上の空論」なのである。

(次回につづく)

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