太平洋戦争(大東亜戦争)が終わってから今年で78年。記憶がすっかりボケてしまわないうちに、あの頃のことを思い出すままに少し書き留めておきたいと思います。とりとめもない老人の昔話として、気軽にお読みいただければ幸いです。
最初に、やや履歴書風になりますが、私は昭和12年(1937年)1月、金子一益・とき夫婦の長男として、愛知県新城市(旧愛知県南設楽郡東郷村)川路というところで生まれました。実家は、豊橋駅から飯田線で約1時間。戦国時代に織田・徳川連合軍と武田軍が激突した長篠・設楽原合戦(天正3年=1575年)の古戦場のど真ん中にあります。
実家の近くには、合戦で討ち死にした武田方将兵の霊を祭る「信玄塚」や、その首級を洗ったと伝えられ、いつも不気味に赤茶色に濁った「首洗い池」などがありました(池は現在もありますが、半分以下に縮小して往時の面影は全くなし)。山紫水明といえば聞こえは良いけれど、昔は猪、猿、熊(私の名前の起源?)などが出てきても不思議ではないような片田舎でした。
生まれた年の9月に、盧溝橋事件があり、日中戦争(当時は支那事変)が始まりました。真珠湾攻撃をきっかけに日米が開戦した時は約5歳。敗戦の時は8歳半で、東郷東国民学校(当時小学校のことをドイツ風にそう呼んでいた)の3年生でした。
当時は、1学級60人位もいて、同級生の中には「ダース(12人)兄弟」の10番目などという子もいました。戦争目的のため「産めよ増やせよ」で、多産が奨励されていたからですが、当時の政府は日米戦争を10年以上も続ける気でいたのでしょうか。
恐ろしかったB29の来襲
戦局はすでに最悪の状況に突入しつつあり、1944年6月にマリアナ諸島のサイパン島を米軍に奪取されてからは、そこを基地とするB29(大型戦略爆撃機)による本土空襲が本格化し、連日猛烈な空襲に見舞われていました。
しかし、B29は比較的大きな都市を狙っていて、小さな町や村が標的になることはなく、その点では私たちの周辺にはそれほど切迫した危機感はありませんでした。ただ一度だけ、名古屋か豊橋を爆撃した米軍機が、帰りがけに爆弾を一発、実家に近い八名村の船着山の麓に落とし、赤黒い煙が高く上がったのを覚えています。多分名古屋か豊橋で落とし忘れたのを慌てて落したのでしょうが、突然だったのでひゃっとしました。
B29は普通1万メートル前後の高度を整然と編隊を組んで飛んでくるので、それを必死に迎撃しようとする日本の戦闘機は手が出ず、あっけなく撃墜されるのを、私たちは下から見上げて口惜しがり、切歯扼腕したものです。
ただ、実際に怖かったのはB29を護衛しているグラマン戦闘機(日本近海の航空母艦から発進する小型艦載機)で、B29より低空を飛んでいて、いつ急降下して機銃掃射してくるか分からないので、学校の行き帰りは特に注意が必要でした。
当時私たちは毎朝消防署の前に集まって、下級生から順に二列縦隊に並んで軍歌などを歌いながら登校するのですが、途中で「敵機来襲!」の警戒警報、続いて空襲警報のサイレンや半鐘がけたたましく鳴ると皆バラバラに分かれて、山の中に駆け込みます。
空襲下の日常生活「贅沢は敵だ!」
そのような日は授業もないので、そのまま山道の木陰に身を隠しながら弁当を食べたり、木に登ったり、小動物を追いかけたり。時には蛇(ヤマカガシやシマヘビなど)を見つけると素手で捕まえて、その場で一気に皮をむき、それを空になった弁当箱に入れて、家に帰って台所に置いておくと、母や祖母が何も知らずに開けてびっくりするのが面白く、そういった馬鹿げたいたずらはよくやりました。お蔭で学校でも自宅でもまともに勉強した記憶はほとんどありません。
といっても、毎日のほほんと遊んでいたわけではなく、百姓だった両親の野良仕事をよく手伝いました。学校でも、校庭や運動場は全部芋畑になっていて、そこでもよく働きました。大都会の人たちの生活と違って、食べ物だけは何とか間に合っていて、あまりひもじい思いをした記憶はありません。
ただし、日常の食事は、生きるためのギリギリの線で、肉や魚はめったに口にしたことなし。なにせ「欲しがりません、勝つまでは」、「贅沢は敵だ!」のご時世で、親や先生からも、二言目には「戦地の兵隊さんの苦労を思え」と言われ、辛抱したものです。
煙草好きの父などは、緑の松葉を茹でてあくを抜き、天日で干したものを古新聞紙などに巻いて吸っていました。人間窮すれば通ずで、大人も子供も色々工夫して耐乏生活を送っていたわけです。
名古屋城の金の鯱を見た
大都市は次々に焼け野原となりました。たとえば、名古屋は、戦争中63回も空襲に見舞われ、死者は8千人に達し、豊橋では死者600人、全焼家屋約1万6千棟(いずれも市のホームページから)。
私は、敗戦の数か月前、母に連れられて初めて、親戚が住んでいた名古屋へ行きました。名古屋駅に着いてすぐ、空襲警報が鳴り、道端の防空壕に避難しましたが、警報が解除されて壕から出た時、遠くに名古屋城の金の鯱(しゃちほこ)が目に入りました。その後まもなく5月の大空襲で天守閣が焼失。あれがお城との最初で最後の出会いでした。
空襲の激化に伴い、全国的に都会から田舎への疎開が進み、東郷村でも小学校には疎開生徒がかなりの数、おそらく1学級に5、6人はいたと思います。飯田線三河東郷駅の近くの勝楽寺(曹洞宗)には名古屋の花ノ木小学校の生徒と先生が約100名集団疎開しており、本堂などで寝起きしていました。
私も純情な軍国少年だった
同じ頃の思い出をもう一つ。私の実家の隣に住んでいた父方の従兄(いとこ)は、私より20歳くらい年上で、兵卒として満州(現中国東北部)や北支戦線で実際に戦ったことがあるらしく、戦争の初期、一時帰省した際に戦場の様子を得意げに話してくれましたが、中国人の首を押切り(農機具)で斬るモノクロ写真を見せられた時には思わずぞっとしました。
勿論、当時の日本兵が中国大陸で実際に何をやったか知る由もありませんが、相当酷いことをやったらしいことは察しがつきました。こうした断片的な記憶は、80年経った今も鮮明に脳裏に焼きついています。
私の母方の従兄の中には優秀な人もいて、彼らの多くは特攻隊で戦死しました。学業成績が良く愛国心が旺盛だった男たちは率先して特攻に志願した(あるいは、志願せざるを得ない状況にあった)と考えられます。生き永らえていれば立派な人生を送ったでしょうが、気の毒なことです。後年、私が外交官試験に合格した時、伯母たちからは、「お前よりうちの息子の方がずっと優秀だった。外交官になったからと言っていい気になるな」と叱られたものです。
かく申す私も、当時はいっぱしの軍国少年で、もう少し早く生まれていたら、多分少年兵として特攻隊に志願し死んでいたような気がします。父は、職業軍人ではありませんでしたが、立派な体格で、若いころ軍務に就いたことがあり、確か最後は陸軍伍長(軍曹の下、兵卒の上の階級)。日米開戦後は在郷軍人として色々ご奉公していたようです。しかし、父からはそうした戦争の体験談をほとんど聞いたことはなく、生前にもっと色々聞いておくべきだったと後悔しています。
豊川海軍工廠大空襲と父
その父との思い出で忘れられないのは、終戦の僅か1週間前、8月7日の豊川海軍工廠大空襲のことです。東三河在住の年配者はご存知のように、この大空襲は非常に衝撃的なものだったようです。ちょうど広島原爆と長崎原爆の間で、国内が騒然としていた時期なので、ほとんど注目されなかったようですが、その悲惨さは原爆被爆に劣らないものがあったようです(空襲の詳細は、豊川市のホームページなどで、また、同工廠で勤労奉仕していて犠牲となった地元の女子生徒たちのことについては、(注)の本を是非お読みください)。
(注)「母さんが中学生だったときに ~豊川海軍工廠被爆学徒たちの手記」エフエー出版 1994年)
この空襲の時、父は、守衛として工廠の正門で勤務していましたが、この正門付近が最も被害が多く、逃げそこなった工員や女生徒の死体が積み重なっていたと聞きました。炎上する工廠から立ち上る黒煙は約30キロ離れた我が家からも、はっきり見え、夜になると上空は赤々と輝いていました。
それを見て、てっきり父は死んだものと思い、翌朝一番に母や姉と一緒に遺体を探しに行こうと、深夜握飯を作りかかっていたところへ、突然父が憔悴した姿で帰ってきました。聞けば、飯田線が動かないので、線路を歩いてきたとのこと。本当に幸運というか奇跡的なことでした。もしあの時父が死んでいたら、我が家の生活は大変なことになり、当然私の人生にも重大な影響があっただろうと思います。
昨年暮れ、新城市のライオンズクラブでの講演のため帰省した折に、初めて豊川海軍工廠跡(現在は豊川市平和公園)を訪れ、昔の弾薬庫や砲弾を作っていた工場、防空壕などを視察し、往時を偲んできました。後日、機会があれば、その時のことや、敗戦直後のこと(米兵との最初の出会いなど)についても色々書いておきたいと考えています。
(2023年8月21日付東愛知新聞令和つれづれ草より転載)
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さて、1945年6月に沖縄戦で敗退すると、日本の敗色はいよいよ濃くなりましたが、勿論当時はそうした情報は私たちの耳には一切入らず、一般国民は大本営発表を鵜呑みにし、相変わらず「鬼畜米英撃滅」、「神州不滅」を叫び必死に頑張っていました。まさか日本が降伏するとは考えていませんでしたし、たとえ考えていたとしても到底それを口にできませんでした。
B29による空襲は激しさを増していましたが、それに対しては、もっぱら「大和魂」と「竹槍」で対抗する以外になく、老人や女性までも軍事訓練に駆り出されました。
すでに日本は制空権と制海権を完全に失っていたものの、陸軍は約400万(1944年末)がほぼ無傷で残っていたはずですが、大半は遠く南太平洋や東南アジアに展開しており、輸送船をすべて撃沈されてしまったため、動きがとれません。本土に残っていたのは約46万(総兵力のわずか11%)に過ぎず、とても本土決戦をやるには不足。それでも陸軍は強気で、徹底抗戦を叫び、本土決戦の準備をしていました。
本土決戦に備えた陸軍の軍事演習
そのため、三河地方にも、陸軍兵が配備され、日夜演習を行っていました。ある時学校からの帰り道、県道で演習中の歩兵の一隊に出会いましたが、真夏なのに彼らは泥だらけになって道路の両側の溝に身を伏せたり、匍匐(ほふく)前進をしていました。どうやら、上陸してきた米軍を迎え撃ち、敵戦車に爆弾を抱えて飛び込む訓練などをしているようでした。
その中の隊長らしき兵士が、野戦用の有線電話機を抱えて色々指示を出していましたが、長い電話線を重そうに引きずっていたのが印象に残っています。あれでは実戦になった時、自由に動き回れないだろう、大丈夫なのかなと思いました。
夜になると、兵士たちは、近隣の農家に分宿することになり、我が家にも東北出身者という兵士が2名泊りました。母は苦労して集めた薪で風呂を沸かし、精一杯のもてなしをしていました。
玉音放送の意味分からず
しかし、こうした国民の必死の頑張りも空しく、広島と長崎に原爆を落とされ、中立条約を結んでいたソ連にも突如攻撃されて、万事休す。8月14日に日本はポツダム宣言を受託し、連合国に降伏しました。
日本政府が最後まで執着したのは「国体の護持」(つまり天皇制の維持)で、それだけは何とか認められたものの、事実上の無条件降伏。日本史上初めての屈辱です。その夜阿南陸軍大臣は「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書を残して割腹自殺。(ちなみに、後年外務省では遺児の一人が私の同僚でした。後に駐中国大使)。
翌15日正午に行われた玉音放送は、リアルタイムで直接聞いた記憶がありません。学校は夏休みだったし、当時ラジオのある家庭はまれ。仮にあっても、雑音が多くて聞き取れなかっただろうし、漢文調の難しい言葉の羅列で、小学3年生には意味が全く理解できなかったでしょう。
夕方になって、どこからともなく、「日本は負けて戦争は終わったらしい」という噂を聞き、しばらく呆然とした記憶があります。正直、戦争が終わってほっとしたというより、口惜しさの方が大きかったと思います。本人はいっぱしの軍国少年のつもりでしたから、勇ましく戦死する機会を失って残念だという気持だったのでしょう。私の周りの大人たちの反応も大体同じでした。
思うに、8月15日の受け止め方は、人によって、場所によって千差万別で、ごく一部の特殊な人を除いて、一般国民は大体同じではなかったかと思います。
ある日突然米兵が学校にやって来た
9月になって久しぶりに学校へ行くと、ある日突然、3、4名の米兵がジープに乗って学校にやってきました。目的は、占領政策の一環として、教育制度を抜本的に改革するための実情調査だったと思います。
それにしても占領後日も浅いこの時期に、こんな田舎の小学校を含め、全国津々浦々の学校を調査して回るとは驚きであり、米軍がいかに余裕をもって、早くから占領政策を練り上げていたか。この一事をもってしても、とても日本が勝てる相手ではないなと、子ども心にも痛感しました。
彼らは皆若く、つい数週間前まで日本と戦っていたとは思えぬほど穏やかな態度でした。詳しい内容は分かりませんでしたが、校長室で色々質問をしたり、調べているようでした。
その時ふと気が付いたのですが、彼らの一人は、校門の近くにあった奉安殿(天皇陛下の教育勅語を常時保管しておく石造りの建物。当時はどの学校にもあった)の前に止めたジープの中にいたもう一人と、しきりに携帯式無線電話機(当時ウォーキートーキーと呼ばれていた)で会話していました。それは片手で楽に持てる大きさです。
この様子を見て、私は急に、以前我が家の近くの県道で演習をしていた日本兵の装備を思い出しました。通信手段一つとっても、この雲泥の違い。ああ、これではとても勝てるはずがないなと再度実感しました。
米兵たちは、一通りの調べを終えた後、校庭でしばらく生徒たちと交流しました。その時確かチョコレートやチューインガムのようなものを生徒たちに分けてくれましたが、さすが私は手を出せませんでした。日本語の出来る二世兵士が通訳していましたが、およそ兵士らしからぬ気さくな振る舞いに、子供ながら感心した記憶があります。
その時の私たちの驚きは、おそらく90年前のペリー艦隊来航時の江戸町民のそれと同じだったのではないかと思います。
もちろん、この19年後、私自身が外交官として渡米して、アメリカ人と対等に付き合う日がくるとは夢にも思いませんでしたが、あの日の体験が、私とアメリカとの関係の原点だったような気がします。
一変した授業内容と教科書
秋学期から学校の授業の様子も一変しました。今まで使っていた教科書は、軍国主義的と思われるところはすべて墨で塗られるか、糊で張られてしまって、読むところは少ししか残っていません。
しばらくして、多分45年末ころ、ようやく新しい教科書が配布されましたが、それは新聞紙の大きさのザラ紙で、自分で八折りくらいにハサミで切り、糸で綴じて教科書にしました。厚さは5ミリくらい。内容は全く覚えていません。
その後1年ほどして一冊の薄い本が配布されました。確か「新しい憲法」という表題が付いていたと思います。新憲法(46年11月3日公布)のことが色々書いてありましたが、正直なところ、急に民主主義だ、自由だと言われても、ピンときませんでした。
中学での最初の仕事は校舎作り
こうして戦後の日々はドタバタした状態であわただしく過ぎ、11歳で小学校を卒業し、新しくできた村立の東郷中学校に通うことになりました。中学校と言っても校舎は無し。
最初の1年は、東郷東小学校に間借りをしましたが、授業はほとんど受けずに、連日新校舎の建設工事の手伝いをしました。真夏の炎天下汗だくになって、近くの豊川の河原から、校舎の基礎工事用の「ぐり石」を見つけ、一人1個ずつ運びました。
ようやく完成し、2年生の新学期から、新しい校舎での勉強が始まった時の感激は一入(ひとしお)でした。自分たちの手で作った校舎だという満足感がありました。
個性的な先生たちとの心の交流
中学校の先生もいわば寄せ集めで、今思うと立派な先生も多数いましたが、随分ひどい先生もいました。中には「特攻崩れ」とおぼしき先生もいて、往復ビンタは日常茶飯事。一人でも宿題をやってこない生徒がいるとクラス全員が罰を食らい、ひどい目に遭いました。先生による体罰は原則禁止の現在では絶対に考えられない状況です。お蔭で、その先生の担当の英語が大嫌いになり、随分損をしました。
他方、戦地から復員してきて、他に適当な職もなく、地元の小学校や新制中学校で教師になった人も少なからず。その中には東京の一流大学で教授が務まるくらいの学識を持った先生もいましたし、共産党まがいの左翼思想の持主もいたようです。
実は私も、そうした先生の影響を受けた時期があり、授業をサボって、そうした先生に連れられて代議士の選挙運動を手伝ったこともあります。大らかというか変な時代でした。
当時は、文部省による過保護的な「学習指導要領」などというものはなく、先生もそれぞれ自分の信念や趣味に応じて適当な教材を使って色々工夫してやっていたような気がします。だから、学科によっては、高校レベル以上のことも中学で平気で教えてくれたので、刺激的で張り合いがありました。先生と生徒との関係も、昔の寺子屋の師弟のような雰囲気で、心が通っていたように思います。
その一例が、本欄の第4回(20年12月7日)でご紹介した故中西光夫先生(元新城市教育長)で、その人間的魅力によって啓発され、薫陶を受けた人は私だけではないと思います。
貧しくも充実した人生経験
このように書いてくると、私たちの少年時代は、貧しく苦労も多かったけれど、それを上回る人生経験を与えてくれた貴重な時期だった、そういう意味では不運どころか実に幸運だったということを改めてしみじみと感じます。
もちろん、そんなことを言えるのも、自ら戦場で戦わず、空襲で自宅を焼かれず、家族に犠牲者が出なかったという僥倖によるものであることは確かです。国のために尊い命を捧げた多くの方々には謹んで哀悼の意を表するとともに、心から感謝する気持ちを忘れてはいけません。
78年前のあの惨めな敗戦から立ち直り、刻苦勉励、日本人としての誇りを取り戻す、まさに「坂の上の雲」の時代を体験した世代の一人として、このことをはっきり胆に銘じておきたいと思います。