「不安」はKGB(ソ連国家保安委員会)出身のプーチン大統領にとって敵を威嚇するうえで最大の武器の一つだった。ウクライナ戦争でもウクライナを支援する欧米諸国に対して核兵器の使用も辞さない強硬発言をして不安を与え、戦いを有利に進めるという戦略を駆使してきた。例えば、同盟国ベラルーシに核兵器を配置することで、ウクライナを支援するポーランドなど欧州諸国に圧力を行使している。敵国に不安を与えるというプーチン氏らしい戦略だ。
ところで、「不安」という人間の最も原始的な感情は常に親ロシア、プーチン氏に味方しているわけではない。ウクライナ戦争が長期化するにつれ、その「不安」がプーチン氏の傍に忍び寄ってきているのだ。
ロシアの安全保障機関(FSO)の元職員であるヴィターリ・ブリシャチイ氏はロシアの独立系テレビ局Dozhdとのインタビューで、「プーチン氏自身は大統領の安全を守る任務の安保保障機関関係者を信頼していない」というのだ。ブリシャチイ氏は現在、家族とともにエクアドルに移住している(以下、ブリシャチイ氏関連情報はドイツ民間ニュース専門局ntvから)。
ブリシャチイ氏によれば、プーチン氏は護衛担当の職員に自身の居所を正確に教えないという。具体例として、プーチン氏がクリミア半島を訪れた時、プーチン氏の到着先としてセヴァストポリとシンフェロポリの2つの空港が指定されたというのだ。両空港の間は100キロ以上離れている。護衛隊はどちらの空港か土壇場まで分からなかった。プーチン氏が急遽異なる交通手段を利用するかもしれないのだ。同氏は、「プーチン氏は自らの命をどれほど心配しているかを示している」と証言している。プーチン氏は自身の護衛隊関係者でさえ自分を裏切るかもしれない、といった「不安」にとりつかれているのだ。
独裁者は実際に亡くなるまで少なくとも数回、暗殺未遂を経験し、生前に何度か自分の死亡が報じられる運命にある。ロシアのプーチン大統領も例外ではない。暗殺未遂事件があった。時期は今年3月だ。ロシア軍のウクライナ侵攻後に暗殺未遂事件が生じたが、プーチン氏は生き延びた。情報源はウクライナ軍事諜報機関SBUだ。それによると「事件は完全な失敗に終わった」という。SBUのキリロ・ブダノフ長官(Kyrylo Budanow)はウクライナの新聞プラウダに語っている。オーストリア日刊紙クリアによれば、プーチン大統領をターゲットとした暗殺未遂事件は少なくとも5件あったという。
「ヒトラー暗殺未遂事件」を思い出してほしい。第2次世界大戦後半の1944年7月20日、シュタウフェンベルク陸軍大佐が現在のポーランド北部にあった総統大本営の会議室に爆弾入りの鞄を仕掛けた。爆発したが、ヒトラーは軽傷で済んだ。大佐は同日中に逮捕され、仲間の将校らとベルリンで銃殺になった。歴史に残る暗殺未遂事件だ。
プーチン氏はヒトラー暗殺未遂事件から学んだのだろう。自身の居所を絶対に漏らさないようにしている。自身の護衛隊にも土壇場まで言わないだけではなく、偽情報を教えることもあるという。ちなみに、プーチン氏の場合、医師、警備員、狙撃兵、フードテイスターがチームを編成し、常に大統領に随伴しているという(「『プーチン暗殺未遂事件』の因果」2022年5月28日参考)。
プーチン氏が「不安」に取りつかれている理由は明らかだ。5月3日未明、ロシアのクレムリン宮殿に向かって2機の無人機が突然、上空から現れ、それをロシア軍の対空防御システムが起動して撃ち落すという出来事があった。ウクライナ軍のドローンがロシアの対空防衛システムを簡単にくぐりぬけてモスクワのクレムリン宮殿まで飛んできたのだ。また、ロシアの民間軍事会社「ワグネル」の創設者エフゲニー・プリゴジン氏(62)による「24時間反乱」(6月23~24日)が起きたばかりだ。同反乱の背後には、ロシア軍内の幹部の関与も噂にになった。プーチン氏を取り巻く周囲はウクライナ戦争前には考えられないほど不安定になっているのだ(「プーチン氏『ハト派よりタカ派が怖い』」2023年7月23日参考)。
国際刑事裁判所(ICC、本部ハーグ)が今年3月17日、ロシアのプーチン大統領に戦争犯罪の容疑で逮捕状を出して以来、ICC加盟国の間では「どの国がプーチン氏を逮捕するか」で話題を呼んでいる。逮捕されることを恐れ、プーチン氏はその後、外遊を控えている。
ちなみに、20カ国・地域首脳会議(G20サミット)の次期議長国ブラジルのルラ大統領は9日、「プーチン大統領が来年のG20サミットに出席しても、わが国は逮捕しない」と明言した。ブラジルはICC加盟国だ。ルラ大統領の「逮捕しない」といった口約束を信じて、プーチン氏がブラジルまで飛ぶとは残念ながら現時点では考えられない。G20サミットにもプーチン氏は欠席し、ラブロフ外相を代理に送ったばかりだ(「猫(プーチン氏)の首に鈴をつける国は」2023年3月26日参考)。
ドイツ通信(DPA)は「ロシアで密告が復活」という見出しの記事(5月16日)を配信したが、ロシアがイギリスの小説家ジョージ・オーウェルの小説「1984年」のような状況になってきているのだ。あれもこれも全て、自身に差し迫ってきた「不安」を追い払うためだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年9月12日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。