秀吉の朝鮮出兵は無謀でなく確かな世界戦略があった

「どうする家康」では、秀吉の朝鮮出兵を懲りもせず、部下に領地を与えたいとか、鶴松を失った悲しみとか、単なる征服欲と結びつけて放送していた。

そこで、ダイヤモンド・オンラインに「【どうする家康】秀吉の朝鮮出兵がそこまで「無謀」ではなかった理由」という記事を書いた。

ここでは、その要旨を紹介するとともに、さらに深掘りしてみよう。

第38回「唐入り」より
NHK「家康ギャラリー」

大陸進出は、信長も計画していたといわれ、秀吉の思いつきではない。会社に例えるなら「全国展開が一段落ついたので、次は海外進出」というのは、大航海時代なら自然なことである。

初めて海外進出するときには、社内でも消極的な人もいる。慣れない海外進出は失敗も多いし、「海外勤務は給料が上がっても嫌だ」という人も多い。それと同じで、大名でも喜び勇んでという者もいたし、慣れない異国の地に行くのを嫌がる者もいた。

そもそも人間は戦いのない世とか、変化のない世を望むものだろうか? そんなはずないだろう。そもそも日本国家にとってのフロンティアは、大陸か東北であって、振り子のように動いていた。

明治維新後だって、当初は北海道開発に熱心だったが、たかがしれてると見て大陸に矛先は変わった。

そもそも4世紀に成立した日本統一国家の領域は、「畿内から出て、東の方は毛人の五十五国を征し、西の方は衆夷六十六国を征服し、海を渡って北の九十五国を平らげた」とあるように、関東から朝鮮半島南部のすべてであって、それが九州から東北にシフトしたのは平安時代のことだ。そのあたりの経緯は記事に書いてある。

秀吉は強力な統一国家をつくりあげ、「太閤秀吉公御出生よりのこのかた、日本国々に金銀山野に湧き出て」(太田牛一)、国力も充実した。その鍵になったのが、明国からだけでなく、南蛮からも技術が入って、鉱山の開発や製錬の技術が向上したことだ。

南蛮人たちがやってきた時、明国は世界有数の技術大国だから大きな差は感じなかったのだが、産業技術が遅れていた日本にとっては、何世紀分もの遅れを取り戻す大チャンスだった。

また、明国や李氏朝鮮も衰退期に入って南蛮人に対応できなかった中で、東日本は徳川家康らに任せて、東アジアの新秩序を構築しようとしたのが秀吉だ。

鶴松が死んだことで、秀吉が悲しみを紛らわすために、朝鮮への出兵を決めたというが、間違いである。むしろ、弟の秀長や鶴松の死で秀次を後継者にした新しい体制をつくらなければならなかったのであり、これらは、海外進出が遅れた理由である。

明国征服という見通しを最初から秀吉が持っていたかといえば、そうではないと思う。夢物語としてはあったかもしれないが、それは海外進出に際して「世界市場でのトップになるつもりで頑張ろう」というようなものだ。

のちに琉球王国に対して徳川家康は、島津に奄美を割譲する、島津の代官を常駐させて国政を監督させる、中国との朝貢貿易は続けて良いが利益の分け前をよこすといった条件で服属させた。そのあたりが、落とし所だったはずだ。

※ 本記事の内容は『日本人のための日中韓興亡史』(さくら舎)、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)による。