危機は姿を変えて来襲
50年前の1973年10月、第4次中東戦争を契機とした世界的な石油危機が勃発しました。当時、通産省・資源エネルギー庁の担当官僚は連日連夜、情報収集、危機対応に追われ、それを伝える記者らも寝食を忘れる日々でした。記者クラブに在籍していた私もその1人でした。
戦後最大の経済危機と闘っているという意識から、危機対応の官僚と記者の間に連帯感が生まれていきました。石油危機が収束した後、担当官僚と記者は「お互いは戦友みたいな間柄。これからも有意義な対話を続けていこう」ということになり、以後、年1回、会合を持ちました。
OPEC湾岸6か国は73年10月16日、「石油価格を70%引き上げる。石油生産量を前月比で5%削減する。イスラエル軍がアラブの占領地から全面撤退し、パレスチナ人の合法的な権利が回復されるまで、毎月5%を上乗せして削減する」と決定し、通告してきました。その月、米国とオランダに対しては、石油輸出を全面的に禁止しました。第一次石油危機の始まりです。
毎年、10月16日(いざよい)前後に、「十六夜会」という名称の懇親会をすることにしたのです。10年か経つうちに、官僚も記者もあちこちに散らばってしまい、自然消滅になりました。それが春頃、官僚側の幹事さんから「今年は石油危機50年になるから、戦友会を開こう。記念に回想録も編集したいので、寄稿をお願いしたい」との連絡がありました。
回想録(小冊子)には存命している官僚側(OB)7人、記者側(同)4人が生々しい証言、提言、解説を寄稿しました。その回想録が完成し、郵送されてきたその日でしたか、「パレスチナのイスラム主義組織ハマスとイスラエルの間で戦闘が勃発。『イスラム圏結束、イラン主導、空爆継続、死者計2200人』」というニュースが飛び込んできました。
イスラエルはいつハマスへの越境攻撃を始めるのか、中東和平はどなるのか、ウクライナ戦争のようなことになるのか、石油価格は高騰するのか、2つも大きな戦争を抱えた世界はどうなるのか、世界景気はどうなるのか。当分、見守るしかありません。
サウジアラビアと米国、イスラエルの関係改善など中東情勢は当時と相当、異なってきてはいるものの、「石油危機50年の回顧録」から学ぶものは少なくないと思いました。回顧録の執筆者は当時、最前線で働いていた課長補佐、班長レベルの人たちばかりです。
「官僚になって最初にして最大の事案だった」、「記者になって最大の事件にめぐりあった」などの回想が書かれています。官僚トップにも気概と覇気がありました。事務次官の山下英明氏は「石油業界は諸悪の根源。アラブのやらずぼったくりの商法に便乗している」と、記者会見で思い切ったことを述べたほどです。
ゼネラル石油内部でトップが「石油危機は千載一遇のチャンス」と発言し、その内部文書が暴露されました。売り惜しみ、買占め、便乗値上げによって儲けようという魂胆です。最近の受託収賄事件の秋本衆院議員には「洋上風力発電ブームが千載一遇のチャンス」だったのでしょう。
最近の官僚には、首相に対する忖度が目立ちます。山下次官のは思い切った発言で、今ならOPECの激しい批判を浴び、日本外しが起きていたでしょう。胆力を感じさせました。
政治家にも国家の危機に対する鋭い感度と主張する度胸がありました。キッシンジャー米国務長官が来日した際、田中首相に「米国は中東和平工作を進めているので、日本がアラブの友好国になり、アラブの味方をするのはやめてほしい」と、クギをさしたそうです。
それに対し、田中首相は「日本は石油資源の99%を輸入、その80%は中東からです。石油輸入がストップしたら、米国が肩代わりしてくれますか。日本は石油資源については独自の外交をします」と居直ったそうです。
中曽根通産相もキシンジャー氏に「国家の経済が破壊されれば、日米安保も崩れる。日本経済の崩壊は自由主義陣営の崩壊につながる」と、四つに組んだ発言をしました。当時の政治家には国家観がありました。
また、ある回想録では「私は石油がどれだけ確保できるか調査に没頭した。船会社に貴社のタンカーはいま、何処にいるか、積載量は、日本到着の日時はと、ヒアリングを続けました。それが年の暮れになると、実際の輸入量が増えてきた。船会社が安全を見計らって、実際より少なめに報告していたのです」と。「私が危機を煽っていると批判されました」。
大局的な視点での回想としては、「米国の自国産原油が70年代にピークアウトし、輸入国になってしまった。73年前半は、石油輸入量の1位は日本で1.2億㌧、米国は2位で1億㌧となり、米国はその脆弱性を突かれた」、「石油危機以前の10年間で世界の石油消費量は2倍にとどまっていたのに、日本は5倍で世界最大の輸入国になっていた。だから飛び上がって驚いた」と。
石油危機対策として「石油需給適正化法、国民生活安定緊急措置法が制定され、室内温度の適温化、マイカー使用の自粛、交通機関の石油節約、深夜テレビの時間短縮などの消費節約運動が展開された」。
最近のガソリン価格高騰に対する物価対策(政府が消費側に補助金付与)は、需給の適正化(需要抑制)ではなく、需要奨励という真逆の効果を生んでいます。岸田首相は50年前の石油危機対策を学び直したらよい。
当時の政策がタイムリーだったのは、73年7月に通産省の外局として資源エネルギー庁が設置されたことでした。鉱山石炭局、公益事業局を統合し、エネルギー政策を一体として行う行政組織を作ったのです。「石油危機の直前に辛うじて間に合うタイミングだった」。
石油危機対策として「石油依存度・中東依存度の引き下げ、海外における自主開発、原子力を含む国産エネルギーへの期待、省エネルギー型産業構造の形成」などが進められ、高度経済成長がもたらされました。官僚にまだ骨太の政策を立案、推進する力があったのです。
「時代はどんどん変わり、50年後の今年の夏、資源エネルギー庁の組織改革が行われ、なんと部名、課名から『石油』という文字が姿を消したのです」。当時は石油部とか石油計画課、石油精製流通課など、「石油」という文字が多くつけられていました。
初めて聞く話なので、資源エネルギー庁の新しい組織図をホームページで調べてみました。「省エネルギー・新エネルギー部」(新エネルギーシステム課、省エネルギー課など)、「資源燃料部」(資源開発課、鉱物資課など)、「電力・ガス事業部」(電力基盤整備課、原子力政策課、放射性廃棄物課など)の3部構成です。「石油」はどこにも見当たりません。
なお、私の回顧録の部分はすでに「新聞記者OBが書くニュース物語中村仁のブログ」に投稿してあります。「オイルショック50年揺れた原発政策に対する一記者の回想」のタイトルで8月の8日(上)、9日(中)、10日(下)の3回です。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2023年10月13日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。