人は何年経ったら「恩讐」を越えられるのか(前編)

10月7日(米東部時間)の「Fox News」は、「イスラエル戦争:ハマスの奇襲攻撃はバイデンチームの失敗に焦点を当てる・・・」との見出し記事をこう書き出した。

ヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)から50年、そしてエジプトのアンワル・サダト大統領がムスリム同胞団のテロリストによって暗殺されてから43年を迎える10月7日、イスラエルの安息日の静けさが破られた 。

筆者は、社会に出る直前に起きた「第4次中東戦争」を「オイルショック」によって記憶に留めるに過ぎない。が、8日夜、友人から「イスラエルとハマスの問題、これは結構やばいね。大きな戦争にならなければ良いが。やはり米国が絡んでいる様だね」とのLINEにこう返信した。

直ぐにイスラエルに潰されるんじゃないか。ドイツ女性が酷い目に遭ったらしいから、ドイツがイスラエルに加勢すると言う歴史的事態になるかも知れない。トランプは、バイデンがイランとの捕虜交換の時に凍結を解除した、韓国に置いてあった60億ドルの一部が、ハマスに渡ったとバイデンを非難している。彼はアブラハム合意で和平を成立させたが、バイデンがぶち壊したとブログに書いた記憶がある。民主党も共和党も中東が荒れて欲しいとは思っていないんじゃないの。バイデンのサウジ対応も稚拙だから早くトランプに代わらないと世界中が困る。

折り返し「サウジも絡んでるし、下手をする時また中東紛争にもなりかねない。どうしても戦火を拡げたい国があるんだな」と返信して来たので、筆者は「ハマスが復讐したいだけじゃないの。サウジは馬鹿じゃない。問題はイランだ」と返して、やり取りを終えた。

ハマスの後ろ盾がイランであるのは周知のことだし、バイデンが60億ドルの凍結を解除したのも事実だ。ブリンケンは「その口座からは1セントも使われていない。それは医薬品、食品、医薬品にしか使用できない」などと戯けたことをいい、ニッキー・ヘイリーが非難した。入って来るなら、手元の金は使うに決まっている。

「米国が絡む」のは、サウジとの相互条約とサウジ・イスラエル間の宥和目的だ。サウジはトランプの「アブラハム合意」に加わらなかったが、「イラン核合意離脱」は歓迎した。喉に刺さったトゲは、18年に起きたサウジ人記者カショギ氏の殺害に、ムハンマド皇太子が関わっていた疑惑。

「サウジは馬鹿じゃない」のは、この奇襲の直後に、パレスチナ政府のアッバス議長に支持を表明する一方で、イランの大統領とも電話協議したことからも知れる。

トランプはサウジへの配慮からムハンマドを不問に付した。他方、バイデンの「サウジ対応が稚拙」なのは、ムハンマドがカショギの「拘束もしくは殺害する作戦を承認した」とする報告書を国家情報長官室が公表したからだ。(拙稿中東和平をぶち壊すバイデンに忠告するキッシンジャーの謎」)。

ハマス奇襲の側杖を食った外国人はドイツ女性に限らなかった。米国人や英国人や中国人タイ人もいた。タイ人はキブツで「オア」(特産オレンジ)を収穫する3万人といわれる出稼ぎ労働者の一人だろう。これには、パレスチナ人を使えば良いのにとの思いを抱く。

ハマスは「直ぐにイスラエルに潰される」としたのは、イスラエルはテロリストと交渉しないし、やられたらやり返さないと国家の存亡に関わるからだ。「ハマスが復讐したいだけじゃないの」と書いたのは、過去の数次の中東戦争でイスラエルが勝ち続けていたことが頭にあった。

今回のハマスにせよ、ロシアのウクライナ侵略にせよ、韓国の反日感情にせよ、過去への恨み辛みや復讐心が根っ子にある、というのが恨む側の言い分だ。大統領に成りたての朴槿恵は日本を「千年恨む」といった。が、後に彼女は反日を控え、慰安婦合意をし、自分を牢に入れた尹錫悦を許した。

そのことを筆者は、拙稿「恩讐を越えた朴槿恵:尹錫悦は国家レベルで同じ努力を」に書いた。尹氏が拙稿を読むはずはないが、彼の政権運営を見ると、徴用工問題にしろ、GSOMIAにしろ、ワシントン宣言にしろ、処理水放出にしろ、未来志向で対外政策を進めているようだ。これを支えたい

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さて、お察しの通り本稿は表題を菊池寛の「恩讐の彼方に」から拝借した。が、菊池も「青の洞門」の逸話からこの物語を着想した。復讐ばかりの今の世の中、一度「恩讐」について考えてみてはどうだろうかと思う。以下にその粗筋を紹介したい。

市九郎は主人中川三郎兵衛の妾お弓と懇ろになり、露見して切られそうになるが逆に燭台で殴り殺してしまう。悔やんで自殺を覚悟するも、お弓に唆されて逃げ出したのが安永三年、主人の一子実之助は3歳だった(菊池は安永三年:1774年と書くが、享保三年:1718年でないと辻褄が合わない)。

市九郎は良心の苛責を受けるも莫連者のお弓に引き摺られ、美人局や往来の町人百姓の路金を奪い、いつしか強盗を正当な稼業とさえ心得るようになっていた。そんな三年目の春、開いていた木曽街道の茶店の前を若い夫婦の旅人が通った。

お弓が藪原の宿まで二里に余る道を近いように二人を言いくるめ、茶店で休むよう勧めるのを聞いてその意図を悟った市九郎は、間道を先回りして二人を殺し、二十両と女の着物を持ち帰る。が、お弓は「女の頭のものは、どうおしだい」と鼈甲の簪を奪い忘れた彼を責め、自ら駆け出す。

命を賭した女が、五両か十両の簪のために、死骸に付く狼のように駆けて行くのを見て、市九郎は一緒にいるのが嫌になり、自首しようと着の身着のまま出奔する。が、中途の寺で出会った上人はこの極重悪人をも捨てず、こう教化した。

重ね重ねの悪業を重ねた汝じゃから、有司の手によって身を梟木に晒され、現在の報いを自ら受くるのも一法じゃが、それでは未来永劫、焦熱地獄の苦艱を受けておらねばならぬぞよ。それよりも、仏道に帰依きえし、衆生済度のために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心じゃ。

寺を出た市九郎は享保九年(1724年)、豊後に宇佐八幡宮を拝し、羅漢寺に詣でようと山国川の渓谷を辿った。そして遭遇したのが、里人らが「鎖渡し」と呼ぶ十丈(約30m)に近い絶壁。岩壁に攀じ登り下を振り向いた刹那、彼の心に大誓願が勃然として起こった。

毎年十余人の命を奪う難所を目前にし、身命を捨ててこの難所を除こう、絶壁を掘貫いて道を通じようと考えた市九郎は、その日から羅漢寺の宿坊に泊まり、村々に隧道開鑿の寄進を求める。が、「風狂人じゃ、金を集めようという大騙りじゃ」と、誰も耳を傾けなかった。

彼は独力で大業に当ると決心、槌と鑿を手に大絶壁の一端に立った。一年が経ち一丈(約3m)の洞窟が穿がたれた。更に一年二年と経つうち、里人の表情は驚嘆から同情に変っていた。彼が托鉢に出ようとすると、洞窟の出口に一椀の斎を見出すことが多くなった。

四年目の終りに洞窟は五丈(15m)に達したが、三町(約330m)を超える絶壁にはなお亡羊の嘆があった。九年目の終りには二十二間(約40m)まで、十八年目の終りには岩壁の二分の一まで穿っていた。

ここまで一度ならず助けに入っては諦めて去っていた里人も、この奇跡を前にもう誰一人疑わず、前二度の懈怠を恥じ、合力の誠を尽くして彼を援け始めた。中津藩の郡奉行も奇特の言を市九郎に下し、近郷近在から石工三十人が集められた。

が、彼の足は二十年近く岩壁の奥深く座り続けたため傷み、歩行には杖が要った。日光を見ない上、飛び散る石の砕片に傷つけられた両眼は光を失いかけていた。だがその頃、市九郎の身にもう一つの命の危機が訪れようとしていた。

(後編に続く)