家康がどのように考えながら天下を取ったかというようなことについて、家康がどのように説明したか等の証言は皆無に近い。あったとしても、それは文学的な想像に過ぎない。
だが、武将たちが行った褒美とか領地を与えたという客観的な事実などからは、家臣たちへの評価や将来構想を読み取れるので、当てにならない伝聞と違って実に雄弁だ。
今回は関ヶ原の戦いのあと家康が差配した大名配置から、関ヶ原の戦いにおける家康の各武将の論功についての評価とか、天下構想を探った記事をダイヤモンド・オンラインで書いたので、いつものように記事の紹介と解説をしようと思う。
関ヶ原の戦いの前の秀吉による大名の配置をみると、天下統一の後、関東を安定させ後顧の憂いをなくして、大陸戦略を進めようとしたと理解すれば良いと思う。
東北は、会津に蒲生氏郷を入れて要とし、伊達政宗ら地元勢力ににらみを利かした。家康を背後から牽制しようとしたともいわれるが、それはおかしい。なにしろ、氏郷の死後は、子の秀行に家康の娘を娶せて後見させたのであって、むしろ、家康の東日本支配を安定させるために氏郷を入れたのである。
だが蒲生家の内紛が収まらず、上杉景勝と交代させ、越後には堀秀治を入れた。
このときには、上杉に家康に睨みをきかすことも少し加味されている。なぜなら、上杉氏は関東管領の家柄で、関東に野心を持っていたからだ。
関ヶ原の戦い後の家康の大名配置は、天下人としてのものというよりは、大名としての徳川家が拡大したとみるべきだ。関ヶ原の戦いが終わっても家康は豊臣の五大老の一人のママだ。制度として廃止したのでなく自然消滅し、三年後に征夷大将軍になったのちは、大坂城に伺候しなくなっただけだ。
だから、この時点では豊臣大名と徳川大名は別の性格を持っていた。関ヶ原以前の領地は、だいたい、武蔵・相模・伊豆・下総・上総・上野だった。
関ヶ原後は、ここに関東移封以前の領地である、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐が戻され、さらに、尾張、美濃、近江、下野や常陸の大部分、それに磐城平が、譜代大名に与えられた。だから、これらが徳川家の加増分とみることができる。
福井の結城秀康は、家康の子でも、身分上は秀吉の養子で豊臣大名であるから、カウント外だ。
家康はこの配置で、白河の関から逢坂の関までを抑えたわけである。つまり、天下をとったというよりは、自分が死んでも東日本は徳川のものとして確保することに重点があったように見える。
それが、時間がたつにつれて、豊臣と対等に二重公儀制といわれる体制に移行し、さらに、豊臣を一大名としかねないことになったので、豊臣が反発して大坂の陣になったわけである。
豊臣と徳川の共存というのは、ありえなくもなかった。とくに、秀頼と千姫に子どもが生まれていたら、いろんな妥協案があり得たはずだ。豊臣が関白で徳川が将軍など、いろいろありえた。
家康が将軍になるときに、公家の間では秀頼が同時に関白になるのではという噂が流れたくらいで、当時の公家の頭ではあり得るということだったのだ。
※ 本記事の内容は、『47都道府県の関ヶ原』(講談社+α新書)、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)に詳しい。
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