太平洋戦争、資源小国日本の破綻:東アジアの平和と安定に貢献する経済安全保障(藤谷 昌敏)

ooyoo/iStock

政策提言委員・金沢工業大学客員教授 藤谷 昌敏

戦争の原因とは何かと考えれば、実に多種多様なものがある。古代から、集落などのグループ同士が水や食糧、奴隷などを求めて争った時代が長く続いた。技術革新が起きて遠洋航海が可能になると(大航海時代)、欧州列強はアジアやアフリカに版図を求め、植民地支配をめぐって争いが拡大した。

封建体制の崩壊を契機として、労働力と資本の集約化に成功したイギリスで資本主義が萌芽し、産業革命が起きると、それに伴い、大国は新たな高効率のエネルギー源である石炭や石油を求めるようになり、生産地の中東やアジアで激しく争った。もう戦争は一地域だけにとどまらず、全世界を覆うようになったのである。

そして現代では、自国の利益を守るためには、可能なあらゆる手段・方策を講じなければ、他国の侵略を阻止できない時代となった。それは軍事的な侵略に備えるだけではなく、経済的な不利益、人権の弾圧、文化の破壊、国民の身体・生命・財産の侵害、サイバー空間の侵害などあらゆる分野を守らなければならず、国防、外交、情報などを最大限活用する必要がある。

これらをほとんど備えている国は米国など数少ないが、どのような国にも弱点や不足している分野は存在する。その国の弱点や不足分野を考察しなければ、今後の対策は立てられない。ここで80年前、なぜ日本はあの大戦争に敗北したのかを考えてみたい。

資源小国日本のジレンマ

1840年のアヘン戦争以降、アジアは欧州列強による帝国主義の支配下に置かれた。日本は西洋のような近代化を拒否すれば、欧米の帝国主義に対抗できないことを理解していた。そのため、明治以降、日本は農業国から工業国に転換しようとしたが、必要な物資はほぼ外国頼みだった。

日本は、鉄、石油、非鉄金属などあらゆる重要な軍事物資が産出されない国であり、特に近代戦に必須のエネルギー資源である石油はほとんど産出されなかった。

そのような日本にとって輸出入の要であるシーレーンを守る必要性は大きかったが、輸出する物が絹などしかない日本が外貨を稼ぐには限界があり、主力艦隊以外にシーレーン防衛のための海軍力を保持する余裕はなかった。

そのため、海軍は艦隊決戦主義と短期決戦主義に固執せざるを得なく、主力艦隊の増強に専心した。ワシントンとロンドンの海軍軍縮条約で対米英比率にこだわったのもそうした理由があったからだ。

陸海軍は、日清日露の両大戦で辛くも勝利したが、それがかえって「日本の軍隊は無敵」との神話を作ってしまい、日本の勝利を信じるメディアや国民は軍部の弱腰を許さず、短期で片づけるはずだった対中戦争の泥沼に引きずり込まれる原因となった。

昭和に入り、日本は、災害の勃発、金融恐慌などによる経済の弱体化に何度も見舞われたことで、軍部が政治の中心となる土壌が出来上がっていたが、軍部は、陸海軍によるイニシアチブ争いにより、しばしば機能不全に陥っていた。

この時期、日本における重要物資の海外依存度は石油92%(うち米国81%)、鉄鋼87%、ゴム100%、ニッケル100%等であった。当時の米国の対日制裁のうち、特に航空機燃料、潤滑油、屑鉄、工作機械等の主要戦略資機材の禁輸を受けることになった影響は大きかった。

だが、ほとんどの戦略物資を日本に提供してきた米国と戦争をすることは、服従か全滅かという二者択一しかない究極の決戦となる。もちろん、戦争は極めて投機的な面があり、必ずしも寡兵が必敗というわけではないが、周辺に有力な支援国がない孤軍奮闘の状況では対米戦はあまりにも無謀な戦いだった。

太平洋戦争に突入すると、陸海軍は、「陸軍の大陸指向と海軍の海洋指向による戦略の不一致」「海軍の短期決戦主義によるシーレーン防衛の軽視」「戦線の拡大による戦力の分散、補給の限界、防衛網の破綻」「日中戦争に加え、米国など多数の国との戦闘による多正面作戦」「島嶼防衛線の経験・認識の欠如」などが原因となって、戦況は次第に不利となっていった。

そして、軍事力の優劣だけではなく、「社会基盤における米国と日本の文化的、科学的、技術的な先進性の違い」「自動車の普及台数、飛行機の免許数の格差」「米国の軍民協力による柔軟な政策に対して、日本は軍人による教条主義的で硬直化した政策」「米国の情報戦重視と日本の情報戦軽視」「日本は情報分析による冷静な判断より感情的判断を優先」など、あらゆる方面で日米の差が顕現した。とりわけ、日米の経済格差は日本を決定的な敗戦に追い込んだ。

経済戦に敗北した日本

日中戦争による戦時増員で、日本の陸軍常備兵力17個師団は、昭和16年12月には51個師団、総兵力約230万人の体制になっていた。そのうち、中国には23個師団、約70万人が投入され、日本軍の戦死者数は19万人、負傷者52万人、戦病者43万人を数えるほどの大戦争になっていった。

戦争の進展に伴い、陸軍の臨時軍事費は、昭和12年16.6億円、13年39.9億円、14年37.4億円、15年41.9億円、昭和16年63.8億円と急伸する。海軍の臨時軍事費は、昭和12年3.8億円、13年8億円、14年11.8億円、15年15.3億円、太平洋戦争勃発後の昭和19年には190.7億円にまで膨張した。

また国家予算に占める軍事費の割合は、昭和9年は43.5%、12年68.9%、16年は70.9%、昭和19年は78.7%と、国家予算のほとんどを占めるに至っている。国民総生産(GNP)に占める軍事費の割合を見ると、開戦前の昭和15年は17%だったが、昭和16年には23.1%、昭和17年30.2%、昭和18年46.2%、昭和19年63.8%と急増する。

このように国家経済のほとんどが軍事費に占められるような状態は、国の経済のあり方としてありえない。軍需生産は民間の経済力に支えられているのであり、民間の活力が疲弊しているようでは、いずれ軍需が行き詰まるのは目に見えていた。

以上、考察してきたように資源小国で経済的にも貧国だった我が国が先の大戦で敗北することは必然だった。

今、日本は経済安全保障の取り組みの中で、欧米との強い絆を維持することで、資源小国という最大の弱点を克服し、戦略物資のサプライチェーンの確保と強い経済力、高度な技術力を保持することに成功している。そして、インド、フィリピン、マレーシアなどの友好国と軍事・経済の両面で関係を強化しており、今後、さらにその絆は他国に拡大しようとしている。

こうした強靭な基盤を背景として、日本はインド・太平洋の自由と民主主義を守り、東アジアの平和と安定に貢献するために一層のリーダー的役割を果たさなければならないのだ。

藤谷 昌敏
1954(昭和29)年、北海道生まれ。学習院大学法学部法学科、北陸先端科学技術大学院大学先端科学技術研究科修士課程卒、知識科学修士、MOT。法務省公安調査庁入庁(北朝鮮、中国、ロシア、国際テロ、サイバーテロ部門歴任)。同庁金沢公安調査事務所長で退官。現在、JFSS政策提言委員、経済安全保障マネジメント支援機構上席研究員、合同会社OFFICE TOYA代表、TOYA未来情報研究所代表、金沢工業大学客員教授(危機管理論)。主要著書(共著)に『第3世代のサービスイノベーション』(社会評論社)、論文に「我が国に対するインテリジェンス活動にどう対応するのか」(本誌『季報』Vol.78-83に連載)がある。


編集部より:この記事は一般社団法人 日本戦略研究フォーラム 2023年10月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方は 日本戦略研究フォーラム公式サイトをご覧ください。