知られざる「尖閣戦時遭難事件」の史実:門田隆将『尖閣1945』

尖閣諸島・魚釣島
内閣官房ホームページより

髙吉の目から、涙がとめどなく流れた。髙吉のその姿を、ともに魚釣島上陸を果たした仲間たちが、静かに見守っていた。

台湾への疎開途中に、破壊された船から命からがら脱出した多くの遭難者へ避難する道を示し、自らは魚釣島で生涯を終えた伊良皆髙辰。

後年、父の足跡を確かめたい一心で、政府の制止を振り切って尖閣諸島に渡った息子の髙吉は、父が無念の最期を迎えたその地に遂に降り立った。

本書は人々から忘れ去られた無名の人々による、終戦間際の涙の物語である。そして同時に、我が国による尖閣諸島領有権の根拠を、現代に生きる私たちに示した貴重な歴史的資料でもある。

沖縄の人たちでさえ、記憶が風化し満足に語ることが出来ない尖閣戦時遭難事件。しかし、この悲劇と魚釣島での遭難者の生き死にを巡る人間の営みが、この小さな岩山を日本の領土たらしめている。

たとえ石垣島に辿りつけず、途中で死んでも本望ではないか。

髙辰は、食料のない魚釣島に留まることは遭難者たちの死を意味する、と肉体的にも精神的にも追い詰められていた。まさに、極限の状況に追い込まれていた人間にしか発することの出来ない一言であった。

魚釣島に真水があること知り、髙辰は海上で遭難民となった一行をこの島へと誘った。だからこそ、何としても飢えていく同胞を郷里へと帰還させねばならないとの責任感が人一倍強かったのだろう。

自らの体力が消耗していく中で、疎開船で知り合った赤の他人のために命を賭ける髙辰。そして無念の死を遂げた髙辰に代わり石垣島に辿り着き、魚釣島への救援隊派遣に道を開いた金城珍吉。彼らの無私を貫く姿勢に、明治生まれの男の生き様を見るのである。

親父が探検してから90年近く、私が払い下げを受けてから40年にもなります。にもかかわらず中国が何か言い始めたのは、やっとここ2、3年のことじゃないですか。何を言っているんですかねえ。

1972年の月刊「現代」6月号。こう語るのは古賀善次。そして、善次の父辰四郎こそが尖閣諸島で事業を始めた重要人物である。

尖閣戦時遭難事件以前に魚釣島を開拓した古賀一族も、本書の重要な位置を占める。遭難した中国人漁民を助け、中華民国駐長崎領事から感謝状を贈られたことが、尖閣諸島が日本領に属することの重要な根拠にもなるのである。筆者は一章を割き古賀一族の足跡を辿りながら、日本による尖閣諸島領有の経緯と中国による根拠のない領有権主張について反駁を行っている。

事業家の古賀辰四郎と、疎開船損傷で止む無く魚釣島に上陸した人々は、こうして歴史の中でつながった。そして、この無人島開拓で最盛期には248人を養った魚釣島の真水が、後に避難する疎開団を生き永らえさせることにつながったのだ。

先人の血と汗の上に、今を生きる私たち日本人は尖閣諸島を我が国の領土としている。尖閣戦時遭難事件から再来年で80年が経過するのを機に、なぜ私たちが尖閣諸島を日本の領土と主張できるのか、その経緯に再び焦点を当てたい。