今年は元旦に能登半島地方を震度7の大地震が襲い、甚大な被害をもたらし、翌二日には羽田空港で被災地へ救援物資を運ぶ海上保安庁機と日航機との衝突炎上事故が突発するなどの衝撃的な惨事が相次ぎ、新年早々から社会不安が高まっています。
海外に目を転ずると、間もなく3年目を迎えるウクライナ戦争は膠着状態にあり、パレスチナのガザ自治区におけるハマス=イスラエル戦争も深刻化の様相を呈しています。また、今年は、米国の大統領選挙(11月)をはじめ、多くの国で重要な国政選挙が予定されており、その結果いかんによって世界情勢は大きく変わる可能性があります。
低下する日本のプレゼンス
このような不安と激動の世界にあって、日本は今後どう対応していくべきか、どのような役割を果たしていくべきかが問われていますが、それにつけても気になるのは、近年、日本の国際社会におけるプレゼンス(影響力)が徐々に減少しているということです。
戦後の日本は軍事、政治面ではともかく、経済、産業面では長年一流国と自負してきました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などという本(エズラ・ヴォーゲル著、1979年刊)が持て囃された時期もありました。
ところが、バブル崩壊後の「失われた30年」を経て、経済的地位も低下し、いまや名目GDPでドイツに抜かれ、いずれインドにも抜かれて世界第5位に転落する見通し。人口1人あたりの名目GDPでも、22年はOECD(経済協力開発機構)加盟国38のうち21位まで下落しました。これは円安のせいもありますが、日本経済自体が衰弱している結果であることは否めません。
経済以外の分野でも科学技術,情報化などの分野での低迷、衰退が目立ち、日本は明らかに一流半、いや二流国になりつつあり、このままでは早晩G7のメンバーの地位を失うのではないかという悲観的な予測も聞かれます。
そして、その原因は、日本人の「基礎体力」が基本的に低下しているからだ、もっとはっきり言えば、日本人自身が「劣化」しているからだという自嘲的、自虐的な見方が増えているように感じます。
確かに、大学の国際比較リストで日本の大学は今や中国、韓国、シンガポールなどの下位にランクされる場合が増えているし、各種の国際会議などにおいても日本人の活躍する場面が以前に比べて大幅に減ってきているような印象を受けます。国際会議の場合、相変わらず英語での発言力が弱いからだとも考えられますが、それだけではなさそうです。
文明と文化の違い
そもそも日本人が「劣化」したという場合、いつの時点を基準として劣化したのか。また劣化とは具体的にどのような形で表れているかを考えてみる必要があると思います。
そこで、やや遠回りになりますが、議論の前提として、国家や民族の「文化」と「文明」の違いという視点からまず考えてみたいと思います。といっても、ここで「文化」と「文明」の違いを哲学的に深く考察するつもりはありません。
実は、私が高校生か大学生のころ読んだ本の中で、和辻哲郎(1960年没)という高名な哲学者の学説がいまでも記憶に残っています。本の題名は忘れましたが、彼はこんな趣旨のことを言っていました。
すなわち、「文明」は、具体的かつ客観的に記録されるので、古い時代に発明・発見されたものでも、後世の人に正確に継承されることが可能である。それに対して、「文化」は優れて属人的、精神的なもので、その人が死んでしまえば、その子孫や弟子でもそのまま継承することはできない。
したがって、「文明」は、先人の業績をベースに後継者はそこからさらに積み上げ、発展させていくことができるが、「文化」は、それができないから、後継者は自力で最初からやってみる以外になく、余程の才能がなければ、いくら努力しても先人の到達したレベルを超えられない。
これを図式化して言うと、文明のレベルは右肩上がりに着実に上昇するが、文化はいつもゼロに近いところからスタートするので、時にはマイナス成長ということになる。これが劣化である。
何分にも大昔に読んだ本なので、和辻学説を正確に引用したわけではなく,私が勝手に今風に拡大解釈したものですが、念のために、簡単な概念図にしてみます。
ハードとソフト
さらに別の言い方をすると、文明はハードウェア的なもの、文化はソフトウェア的なものといえるかと思います。例えば、私たちが数十年前まで使っていたラジオ、レコード(蓄音機)、有線電話は廃れ、今や完全にテレビ、パソコン、CD、スマホ(携帯電話)に取って替わられ、音質も画質も飛躍的に進歩しています。
しかし、その最新型テレビで日常的に流れてくる情報や娯楽番組のレベルとなると、全く進歩していないどころか退化しているのが現実ではないでしょうか。はっきり言って、大半が低俗で、とても文化的とは言えないようなものが氾濫しています。昔のラジオ、レコードやテレビ(モノクロ)は、ハードウェアとしてはお粗末でしたが、中身的には遥かに上質だったと思います。映画やテレビドラマにしても、昔のものはストーリー的には単純(ナイーブ)でしたが、立派な内容のものが多かったように思います。
それに比べ、最近の状況はどうか。たとえば電車や地下鉄に乗った時など、若い乗客のほとんどが一心不乱にスマホをやっているので、相手に気づかれないようにそれとなく覗いてみると、大抵ゲームかそれに似たようことをやっているようです。
単なる時間つぶしで、他人に迷惑をかけていないのだからよいではないかと言われればそれまでですが、それにしても大変な時間と知的エネルギーの浪費ではないかと思ってしまいます。もっとも、これは、私のようなアナログ人間の偏見、僻みだと言われれば、そうかもしれませんし、車内で文庫本を読んでいれば文化的で教養があり、ゲームばかりやっていれば低俗、堕落と決めつけるつもりはありませんが。
とくにひどい政治家の劣化
いずれにせよ、一世代以上前の日本人に比べると現在の日本人(中高年者を含む)が総じて“平和ボケ”していて、覇気に乏しく、人間的に劣化しているような気がするのは確かで、私のような化石人間的な高齢者としては、こんなことで将来の日本はどうなるのか、他国に伍していけるのか、憂慮に堪えないところ。このことは、とくに日本の政治家の質について言えるのではないかと思います。
大分昔のことですが、私が数年ぶりに海外勤務から帰ってきて、テレビで政治家が喋っているのを聞いていて、ひどく気に障った言葉があります。それは「何々させていただく」という言葉使いです。
例えば、「私が大臣をさせていただいた時に、何々の政策を決定させていただいた」という風な言い方です。誰が最初にこの表現を使い出したか判然としませんが、どうやら「言語明瞭、意味不明」と評された竹下登氏(元首相)などが国会で多用したのが始まりではないか。
なぜもっとはっきり、自信をもって「私が大臣をしていた時に、何々の決定をした」と言わないのか。今では、この表現は政治家だけでなく広く一般的に使われています。ご本人たちは謙虚な、卑下した気持ちで言っているのかも知れませんが、いかにも責任逃れか、大衆迎合的で、不愉快に感ずるのは私だけでしょうか。
ついでに言わせてもらえば、不祥事があった時に、大企業のトップがテレビ会見で、雁首揃え深々と頭を下げて謝罪するのも見ていて気持ちのよいものではありません。本当に謝罪する気持ちがあるのなら、責任をとって潔く辞職するのが筋です。
テレビカメラの前で、不特定多数の人々に対し頭を下げるというこの珍妙な風習は昔は無かったはずだし、日本以外の国では見られないことで、知り合いの外国人に訊くと彼らも大いに違和感を感じるそうです。これもまた日本人の劣化の一例ではないでしょうか。
日本語の乱れは日本文化の劣化
ついでにこの際、もう一つ気になる日本語の用法について。よく若い人たちの会話の中で「・・・とか・・・とか」というのを耳にします。例えば「本とかを読む」、「散歩とかに行く」というように。
これもはっきり断定するより適当にぼかした方が無難だという日本人特有の感性のせいなのでしょうが、昔は無かったことで、これも日本語の劣化の一種であると同時に、日本人の精神的劣化をも示すものではないかと思います。
最近の意味不明のカタカナ文字(「タイパ」、「コスパ」、「ステマ」等々)の氾濫や会社名をアルファベット3文字で表記する傾向などについては、「劣化」以前の問題で、嘆かわしい限り。正しい日本語で表現しようと努力する姿勢が決定的に欠如しているとしか思えませんが、母国語を大事にしない民族は早晩滅びるという警句があることはご存じの通りです。
民主主義と政治家の品質
さて、話を本筋に戻して、日本人は本当に劣化したのか。劣化したとしてそれをどうやって食い止め、是正、改善していくかです。これはもちろん非常に難しい問題で、簡単に解答できるわけがありませんが、あえて一言で言えば、やはり最終的には教育によって解決していく以外にないでしょう。とくに初等教育でしっかり対処してもらいたいし、家庭教育も大事であり、それらを担う先生や親自身も変わっていかなければ解決は期待できないでしょう。
また、先ほど政治家が特に劣化していると言いましたが、そのような政治家を国会議員に選んだのは一般国民です。今時の政治家は総じて政策より政局に関心があり、何よりも次の選挙対策で頭が一杯。当選するためには、民意に逆らうより、民意に迎合する方が得策と考えているようです。
そうであるならば、政治家の品質を改善するには、迂遠なようですが、まず民意の向上こそが必要です。現在一部の強権国家を除き、大多数の国で民主主義制度が採用されており、多少の違いはあるものの、その基本は選挙です。
かつてチャーチルは「民主主義は最低の制度だ。ただし、それ以外のすべての政治体制を除いてだが」と喝破しましたが、民主主義を生かすも殺すも有権者である国民だということを再認識せねばなりません。
日本人よ 早く覚醒せよ
最後に、やや蛇足めきますが、私は決して日本の将来を悲観しているわけでも、現代の日本人(若い人を含む)が他国との比較で本質的に劣化していると考えているわけでもありません。仮に多少劣化してきているとしても、いずれどこかで覚醒し踏みとどまって、再び日本民族の底力を発揮してくれるだろうと信じています。
ただ、日本がアジアで唯一の先進国であった私たちの現役時代と違って、ライバルとの競争の激しい現代世界においては、あまり長い昼寝は禁物だと考えております。
(2024年1月29日付東愛知新聞 令和つれづれ草より転載)