糖尿病名騒動「言葉狩りしてことなかれ」のナンセンス

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昨年唐突に「糖尿病」の病名変更議論というより騒動が沸き起こった。「尿」は汚い字で偏見を持たれるから変えろ、という。ふと痴呆が認知症に、障害が障ガイに言葉狩りされ変更された経緯に既視感を覚えた。何か本質的なこと大切なことが置き去りに見えた。

糖尿病という病名はDiabetes MellitusまたはDiabetesと英語では呼ばれる。Diabetesとはギリシャ語で「水がジャンジャン出る様子」、Mellitusはラテン語で「蜜のように甘い」という意味らしい。糖尿病の症状である多尿と尿糖を言っているわけである。さらには古代エジプトだかではファラオの侍医がその尿をなめて糖尿病になっていないか確かめていたなどとどこかで読んだ気もする。要は古代から知られた主要症状が古今東西問わず病名になったということだ。

ここで医療専門職ではない方のために解説するが、糖尿病の本態は「血糖つまり血液中のブドウ糖が過剰になる」それにより「特に微細な血管が傷害される」ために「比較的長い経過で多くの内臓や器官の障害を起こす」ことである。そして面倒なことに「重症化するまではほとんど自覚症状が無い」。

さてそこで一部の声の大きな人たちが「糖尿病でも尿糖が出ないことがある、から尿という字を外せ」という。尿糖が出ないようにそれを目安に食事療法、運動療法そして薬を処方するのだから、それでも尿糖が出るなら医者がヤブか患者が不摂生すぎて治療が追い付かないということになる。逆に多彩な効果で近年注目されているSGLT2阻害薬は、血糖を尿糖として排出するので、尿糖が大量に出る。

一方、子供つまり小中学生の小児糖尿病のスクリーニング検査として尿糖は極めて重要である。まだ聞き分けない体が小さい1、2年生から採血など現実的ではないが、尿なら簡単に取って検査できる。実際に(不摂生が原因ではない)Ⅰ型糖尿病が早期発見される場合があるし、近年は子供の肥満等による糖尿病増加が懸念されているので、尿糖検査は非常に重要である。そして、糖尿病は尿糖が出るから尿検査が重要、という説明は親だけでなく子供も理解しやすい。将来の生活習慣病予防への第一歩として、分かりやすい病名は重要である。

次に「声の大きな人たち」は尿という字が汚いイメージが悪い偏見につながるという。しかしでは「便秘」はどうなのか。「膀胱炎」膀胱は尿が貯まるに決まっているから汚い言葉ではないのか。

そもそも「痴呆」は「バカ、バカという意味で良くない」と「認知症」に変えたら、医療介護現場では「あの人ニンチだから」というようになった、結局差別意識は変わらない。

「障害(者)」についても「障碍」「障がい」に変えたからと何が良くなったのか。障害者雇用を見ると雇用者数は60万人強でしかない。一般企業等への就職が難しい重度障害者のためのいわゆる授産所や作業所である支援事業所は、給与にあたる工賃が月数万円程度でしかないという。

我が国では近年「言葉狩り」が横行し言葉の改変を繰り返してきたが、実は中身、当事者の待遇や接する側のメンタリティはほとんど何も変わっていない。上っ面の言葉を誤魔化しただけで終わっている。

さらには特に先天性の障害者等の障害を軽減回復する手術などに適応される公費医療「更生医療」にまで物言いがついた。「更生は悪いものを直す意味だからよくない」という。しかし更生の第一の意味は「よみがえる」である。立てない人が立てるように、よろめいて歩くのがやっとな人がスイスイ歩けるように、先天性心奇形を手術で直して元気になれるように、等のための公費医療が更生医療なのに、その本義を理解せず言葉尻だけに反応しているのではないか。

話を糖尿病に戻して、糖尿病と知られると「だらしがない」等偏見を持たれる、と「声の大きな人たち」は言う。そうだろうか。

筆者は多くの糖尿病患者の保健指導に携わったが、色々である。きちんとした人も居るしだらしない人も居る。100Kgを超える巨体、痩せるだけで改善するのが分かっているのに、何を言っても生活を変えない痩せない人はどこにでも必ず居る。病名ではなく、その人の普段からの働きぶり人となりが職場などで評価されているのではないのか。

近年は公共のトイレ等にインスリン注射の針が置き捨てられ問題になっている。当然だがインスリン注射を指導する際に、必ずしっかりした容器で持ち帰り・保管し医療機関に持参廃棄するよう指導する。それができない、言われたこと護るべきルールを護れないような一部の人が問題なだけではないのか。

このまま病名変更したとしても、認知症がニンチと呼ばれるように、糖尿病は「あいつダイアベだべ」と言われるだけの話に終わるのではと予感する。

さて年度明けには診療報酬改定がある。そこで外来医療ではかなりの衝撃? 糖尿病や高血圧、脂質異常症など生活習慣病患者への食事運動療養指導の根拠また原資となっていた特定疾患療養管理料が見直され、糖尿病等では算定できなくなるようだ。率直に言ってきちんと指導助言していない医師・医療機関もあるだろうが、熱心に関わっている医師、看護師、栄養士等も居る。まさに足元をすくわれる感である。

ちなみに「指導」という言葉も近年嫌がられている。「意識の高い」糖尿病専門医療者は「患者支援」と言い換えているようだ。しかし筆者は何か責任放棄を感じる。こちらは医療専門職、国家資格を持ち学習研鑽を続け患者をはるかにしのぐ知識と経験をもって「病気が良くなる方向を指さし導く」から指導という。応援してますよ(あんたが自分で頑張れ)、で済むはずがない。それで済むなら糖尿病になどならない。善き導き手(であること)は大切なのではないのか。

近年の研究では、一定の条件を満たす糖尿病患者の一部は、治療薬を離脱し食事運動療法のみで済む、実質的治癒(寛解)し得ることが分かってきた。糖尿病でなくても摂生している人は多いから、食事運動つまり生活の摂生だけで済むならもはや病気とは言えない。しかしそうなるためには強く自身の状態を意識して摂生する必要がある。イメージ気分悪いから病名変えろというメンタリティで、それができるだろうか。

筆者は先年「愚鈍化・刹那主義化し、命が軽い日本人 」で日本人の少なからずが刹那的かつ「考え足りなく」なっていないかと論じたが、今回の糖尿病を含め過去の病名変更騒動「言葉狩り」もまた同じくに見える。上っ面見かけの問題ばかりこだわり、本質的部分が軽んじられ忘れられていく。これで日本いや闘病すべき本人たちは大丈夫なのだろうか。

糖尿病は健康診断やたまたまの血液検査で発見されることが多い。もちろんほとんどの人は晴天の霹靂である。しかし早く見つけて原因を分析しつつ食事、運動の摂生、それでだめなら治療薬で多くはコントロールできる、つまり普通の生活ができる。血圧が高ければ減塩して薬を飲むのと変わらない。トイレに行くと自動的に尿検査し健康管理するシステムの開発も複数で進められている。刹那的感情的に大事なことを安直に変えて、見失わないようにしたいものである。