産業組織は、設立の目的に対して合理的に編成されているところに特色がある。故に効率的ではあっても、目的を超え得ないという自明の限界のもとにある。故に、目的自体の合理性が失われたとき、組織の弊害が顕在化する。
また、企業の論理性が経営の効率性を支えているが、その論理的な効率性のもとでは、創造が起きるとは考えられない。創造は、それが真に新しいものの創出である限り、無より生じるのであって、過去から現在につながる論理的な展開の先に生まれるはずはなく、過去との断絶として、唐突なる変異として生起するのである。
組織の論理から創造が生まれないとしたら、創造は組織に属さない個人から生まれるほかない。働き方改革というのは、組織に個人を帰属させる伝統的発想を超えて、組織と個人との間に自由で弾力的な関係を構想するものだといってよい。
もはや、伝統的な組織のなかに個人を押し込めておいては、創造は起き得ないのであり、創造がなければ成長はないのである。あるいは、もっと簡単なことで、人は、創造的に生きなければ、面白く楽しく生きられないのである。故に、働き方改革なのである。
産業組織ではない集団は、価値を共有する人の緩やかな集まりにすぎないのであって、目的に対して合理的に編成された閉じた組織構造をもたない。産業組織には指揮命令系統をもつ統治構造があるが、産業組織ではない集団には明確な統制がなく、全ては価値の共有に基づく自然な自治に任されているのであって、そこでは個人は独立しているのである。
この価値の共有と個人の独立は、組織との決定的な違いであり、故に、働き方改革において、組織の欠陥に対する対策として重要な機能を演じ得ると考えられる。さて、この何らかの価値を共有する集団は、構成する個人が独立しているという意味では、自治的な共同組織と呼ばれるのが一番相応しいが、片仮名でいえば、コミュニティーである。
コミュニティーは、独立した個人の集合である。そして、独立した個人こそ創造の現場なのだから、その限りにおいて、コミュニティーは創造的なのである。問題は、創造の可能性は、個人がコミュニティーに属することによって、高められるという点に帰着する。実際、創造は、社会に向かってなされものである以上、孤立した個人の地平では起き得ないであろうし、創造を組織の革新につなげるためには、コミュニティーのような何らかの媒介を必要とするはずなのである。
さて、価値が共有され、その価値の力だけで自治が成立するためには、コミュニティーには規模の上限があるであろう。おそらくは、社会が均質的であればあるほど、コミュニティーの規模は大きくなり得て、また、社会環境の変化が緩やかであればあるほど、コミュニティーの規模は大きくなり得るのだと思われる。逆に、社会が多様であれば価値も多様となり、変化が速ければ価値を共有できる時間が限られるために、コミュニティーは小さくならざるを得ない。
企業に代表される組織も、創業の原点においては、創造的コミュニティーだったに違いない。そして、おそらくは、社会構造が均質で、構造の変化が緩やかだった時期には、いわば時間がゆっくりと均質に流れていた時期には、創造的に機能していたのではないか。実際、多くの企業は目的合理的な組織というよりも、価値を共有するコミュニティーに近かったのではないか。
しかし、各自が経験に付与する価値観が多様化し、支配的価値の交代が激しい現代社会では、企業のような組織はコミュニティーとして大きすぎる。しかも、大きすぎる組織を維持するための支配原理は、命令の体系として、仕事の楽しみを完全に奪ってしまう。だからこそ、改革が必要なのである。
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森本 紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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