社会に向けて声を上げるとき、イタいと思われないために意識すべき1つのこと

先月の終わりごろ、このツイートが話題になっていた。

発信元のアカウントのフォロワーは900人弱にもかかわらず、いまや200万回以上も閲覧されている「大バズり」である。あまりにバズりすぎて、もうTwitter(X)をやっていない私まで目にすることになってしまった。

野暮を承知で解説すると、『「自由」の危機 息苦しさの正体』という2021年6月に出た本があり、表紙には学識者を中心とする26名の名前が、上下2段に分けて印字されている。

むろん「この26人が著者ですよ」という意味なのだけど、投稿者氏はわざと誤読して「この26人こそが『息苦しさの正体』だ!って晒し者にする告発本なの?」と紹介するボケをかました。それが大ウケしたわけである。

とはいえ、おそらく当の26人の著者には、自分たちがなにを揶揄されているのか理解できないと思う。「社会の息苦しさに対して声を上げた私たちが、どうして『息苦しさの正体はお前だ』なんて言われるの?」と、素できょとんとしている人が多いのではないか。

一流大学の教員を多数含む論壇のオールスターズが、ネットの民意とすっかり乖離してしまった現状はもったいない。そこで及ばずながら、大学教員と在野の双方を経験した私が架け橋となって、両者が理解しあえるように解説しましょう。

26名に代表される「有識者」に限らず、人は誰しも時として声を上げ、他の人に影響を与えようとしまーす(以下、授業口調)。そうした社会的なアクションの内容に基づいて、人間のあり方をざっくり分類すると以下のようになります。

① いま「するべきこと」をする人
② なにもしない人
③「するべきこと」とは違うことをする人
④「するべきではないこと」をする人

①が望ましく④が間違っていることは、誰でもわかりますね。でも大事なのは両者のあいだに②と③があること、そして「③は②と④のどちらに近いのか」こそが、行動の評価を決める最大のポイントであること。『息苦しさの正体』の26人をはじめとして、これを見落とす方が多いんです。

端的にいうと、③の方が②よりもイラッと来るんですよ。

なにもしない人に対して、ふだん(まともな)他の人は「まぁ仕方ないかな。忙しいとか立場の問題とか、事情があるのかもしれないからな」と思っています。しかしなにかをした人に対しては、そうではない。「いやいや、あんた行動する余裕あったんやん。それでやった中身が、これ?」と、評価する際のハードルが上がるんですね。

そしてとりわけ有識者の場合なんですが、③ってしばしば、④と比べてもいっそう劣った存在として評価が低くなるんですね。

もちろん①が正しく④は間違いなのですが、自由な社会においては「価値観の多元性」というものが認められているんですね。つまり、ある人が「これは①だ!」と信じている主張が、別の人には「いやいや④でしょ」という風に見えている。そうした状態を前提として想定しておくことは、社会に向けて発言する人全員の義務なんですね。

なので(まともな)多くの人の場合、④であればまだ「自分とは価値観が違うけど、本人は①だと信じているのかな」として受け入れられる。しかし③をやられちゃうと、「え、いまそれ?」「イミフッ!」としか反応できなくなるんですね。

だから社会に向けて声を上げるとき、意識すべきは「なるべく自分と違う立場の人の目線を想定し、④に映ってもいいから、③に見えることだけは避ける」。この一択です。これさえ守れば、批判はされても「イタい」とは思われない。

さてこの『「自由」の危機 息苦しさの正体』、実は発売時に平積みだったのを私も立ち読みしました。当時、本屋さんの中に店を出してたもんで。でも買わなかったし、自分の店にも並べませんでした。すみません。

なぜか? 冒頭にも記したとおり、同書の刊行は2021年の6月でした。つまり、そのとき読者が感じる「息苦しさ」を解消するために、有識者に求められていた①の行動は、以下のようなテーマに取り組むことだったんですね。

第1回 パチンコと居酒屋と「共感格差」 | 磯野真穂×與那覇潤「コロナ禍に人文学は役に立つのか?」 | 磯野真穂 , 與那覇潤 | 対談・インタビュー | 考える人 | 新潮社
新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、1回目の緊急事態宣言が出されてから1年4か月あまり。理系の専門家が主導するコロナ対策の裏で、見過ごされている問題はないのか。人文学の視点から何か提言できることはないのか。人類学者の磯野真穂さんと、(元)歴史学者の與那覇潤さんが話し合いました。※この記事は、2021年7月16日にジ...

対して26人分の原稿を全部読んだらしい、古市憲寿さんのコラムにも当時書かれていたけど、残念ながら『「自由」の危機』は存在そのものが③だったわけです。(まともな)多くの国民にとっては。

当然、新型コロナウイルスの流行する中で、事実上の私権制限に対する異議申し立てかと思ったら、全然違った。ほぼ全編にわたって日本学術会議の会員候補の任命拒否や、あいちトリエンナーレについての恨み節が述べられているのだ。
当事者にとって切実な問題であるのは理解できる。しかし、予防的に私権を制限される飲食店がたくさんある中で、自分たちの関心事ばかりを「自由の危機」と言われても困惑してしまう。言論の自由と学問の自由が大事なら、営業の自由も重要なはずだ。

(強調は引用者、初出は2021年7月)

私のように昔は大学教員をしており、かつ歴史学者でもあった者としては、もともとは「コロナでズレていたから」ダメだった識者26名の共著が、当時の文脈を忘れられて「最初からこいつらバカ」のようにネットで晒されているのは見ていられなくて……(笑ってないですよ)。

思わず義侠心から反知性主義に立ち向かい、いまや存在自体が息苦しいとまで卑賤視される大学教員たちの側を「擁護」してみました。やはりなにごとも、史実に基づく実証が大切です。

もちろんある種の人にとっては、この文章自体が「するべきではないこと」のように見えたかもしれません。その場合はぜひ、その人なりの「するべきこと」に邁進してほしいと思いますし、当方もまたしっかりと刮目しつつ、その成果を今後とも論評し続ける所存です。

(ヘッダー写真は『東京新聞』より。まだ続いていた学術会議問題がめっきりバズらないのは、「学問の自由がなくなる!」と叫んだ先生方がみなさん亡命したためですね。あれだけ言っておいてまさか、学問の自由がない国の大学に、のうのうと勤めている学者がいるはずもないですし……)


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年3月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。