赤染衛門は卑弥呼が魏の前に交流していた公孫氏の子孫

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NHK大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道長の妻となる源倫子(左大臣源雅信の娘で宇多天皇の曾孫)を囲む女子会がよく登場するが、この会の主宰者が百人一首にも登場する女流歌人・赤染衛門である。

この赤染衛門についてダイヤモンド・オンライン「【光る君へ】「人妻であろうとも心の中は…」で話題!才女・赤染衛門と卑弥呼の“奇縁”とは?」という記事で紹介したので、ご覧頂きたい。https://diamond.jp/articles/-/340430

ここでは、そのうち、卑弥呼との縁についての部分を紹介する。

赤染衛門は、邪馬台国と卑弥呼を語る上でキーパーソンの一人である、中国の遼東太守・公孫淵の子孫なのである。

中国の文献では、107年には倭国王・帥升らが160人の奴隷(生口)を安帝に献上したとあるのだが、そのあと、使節が来た記述がなく、2世紀頃の倭国では大乱があったとされている。

そして、239年になると、邪馬台国の卑弥呼が後漢を滅ぼして華北を統一した三国時代の魏に遣使して「親魏倭王」と刻まれた金印と銅鏡を授かったとある。

なぜこのあいだ倭国との接触が途絶え、239年(238年説もある)になって急に卑弥呼から使節団の派遣があり、魏からも使節が派遣されたというのは不思議だが、華北から満州南部、さらには朝鮮半島北部にかけて公孫氏を君主とする準独立国が成立して洛陽付近の後漢や魏の支配が及ばなくなったことも原因とみられる。

2世紀初めの公孫延(戦国時代における最後の魯侯である頃公の18代目あとの末裔と称する)は、遼寧省に設置されていた玄菟太守の公孫琙に仕えていたが、公孫琙の夭折した子と幼名が同じだったことから寵愛され、169年に後漢の霊帝が優秀人材を推挙するように求めたときに、推薦されて郎中に任じられ、尚書郎から冀州刺史に転じた。

189年に政権を壟断していた董卓から遼東太守とされ、董卓への反感が高まり190年に混乱が激化したのを見て独立志向を強めた。高句麗や烏桓を討伐し、後漢の実権を握った曹操から武威将軍・永寧郷侯の地位を与えられたが、満足しなかった。

204年に死去したのち、子の公孫康が相続し、支配下に収めた楽浪郡(平壌)の南部を分かちて帯方郡とした。

その跡を継いだのは弟の公孫恭康だが、公孫康の子の公孫淵が地位を奪い、魏に服従する一方、呉と内通した。236年に魏の皇帝曹叡からの独立を図り、燕王を称したが、238年に司馬懿によって討たれた。呉の孫権は援軍を送ろうとしたが間に合わなかったとも言う。

魏志倭人伝は卑弥呼の使いが帯方郡にやってきたのは、景初二年(238年)6月だとしているのだが、それだと、公孫氏が滅びる同年8月より前でまだ帯方郡などを支配していたときでないかとなる。そこで、これは、景初三年(239年)の間違いではないかと内藤湖南が提唱してから日本ではそれが有力である。

決め手はないのだが、239年であれば、公孫氏が魏に滅ばされて帯方郡に魏が進出してきたのをみて、卑弥呼は使いを魏に出したということになるし、238年なら邪馬台国が曾孫氏と対立していたので魏と結ぼうとしたとか、魏が邪馬台国に結ぶことを打診したとか、あるいは、公孫氏が滅びる前に帯方郡は先に魏の支配下に入っていたのかもしれない。

そもそも、公孫氏と邪馬台国など倭人諸国がどういう関係であったかは不明である。なにしろ、魏呉蜀と違って正式の王朝としては後世に認められなかったので、史書が成立していないのである。

ただ、常識的には、半世紀近く遼寧省から朝鮮半島北部を支配していた公孫氏と倭人たちが没交渉で、これが滅びた途端に魏と接触したというのは考えにくく、朝貢するなど、なんらかの外交関係があったと見る方が自然だと思う。

子孫は百済に仕え、推古天皇の時に、公孫淵から22代目の比善那が日本に帰化し、その子の眞高が赤染造を名乗ったとある。その孫の徳臣は壬申の乱で大海人皇子の側で活躍し、その孫の廣足からは常世連を名乗るようになった。さらに六代あとの筑後介節安は赤染に復帰し、その子である赤染時用の娘が赤染衛門である。衛門は父の官名からとられている。公孫淵を初代にすると、29代目である。