合衆国憲法の制定!フェデラリストとアンチ・フェデラリスト:アメリカの歴史⑦

今回は、アメリカの歴史の7回目です。

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アメリカ独立戦争と外交の勝利~アメリカの歴史(6)|自由主義研究所
今回は、アメリカの歴史の6回目です。 いよいよ独立戦争が勃発します。 ※このシリーズは、歴史を学ぶことで自由主義を理解しやすくなるために書いています。そのため、実際の戦闘の様子については書きませんので、ご了承ください。 ・7年戦争(フレンチ・インディアン戦争)でフランスに勝利したイギリスは、北米大陸の東半分の明白...

1. 合衆国憲法の制定

1781年、「連合規約」にようやく全邦批准が実現し、発効しました。連合会議は脆弱ながらも正式に各邦を束ねる中央政府のような機関となったのです。不完全ながらも行政機能を分掌しましたが、課税権の付与は実現しませんでした。西部領土は、各邦ではなく連合会議の管轄下に置かれました。

1785年の公有地条例では、旧北西部の公有地の測量・売却の手続きが定められました。

1787年の北西部条例では、アメリカ合衆国が統治する最初の領土として、五大湖の南オハイオ川の北と、ミシシッピ川の東の地域を北西部領土と規定しました。その地では奴隷制が禁じらます。

自由成人男性の人口が5000を超えると準州として自治権が認められ、自由人人口が6万に達したら承認を経て邦(州)に昇格できるとしました。

既存の州と完全に同等の資格で連邦に加わる仕組みです。

イギリス本国のように植民地として従属させ続ける伝統的手法とはまったく異なる統治原理が確立したのです。

しかし、連合会議は、戦後のインフレなど悪化する経済状況と政治的混乱への対応では困難を極めました。1786年にはマサチューセッツで債務返済にあえぐ西武農民たちの大規模な反乱(シェイズの反乱)もおこります。

1780年代は、革命と共和主義がともに危うくなった危機の時代でもありました。

社会下層の人に繁栄の機会を広げることに成功したまさにそのことが、革命の指導層(エリート)の一部に危機感を抱かせたのです。

ニュージャージー邦知事のウィリアム・ヴィングストンはエリートの意見を代弁するかのように「共和政体を支えるのに必要な徳を発揮していない」と語りました。

邦議会では、出身階層が低く農村部出身であまり教育の高くない人たちが議員になっていました。多くの革命派が共通善を促進するために果たすべき自分たちの共和主義的な責任と考えていたものを、ほとんどの邦議会では履行することなどできなかったのです。

ジェイムズ・マディソンやアレクサンダー・ハミルトンは、民衆よりのデモクラシーよりも、権限や安定を重視していました。連合会議がうまく機能していないことに幻滅し、「地方主義」や「権力の抑制」を革命の理念とすることに異を唱えたのです。

ジェイムズ・マディソン

アレクサンダー・ハミルトン

2. フィラデルフィア憲法制定会議

1787年、このような混乱状態の立て直しを図るため、連合の見直しのための会議がフィラデルフィアで開かれました。

のちに憲法制定会議となるこの会議では、ジェイムズ・マディソン(ヴァージニア代表でのちの第4代大統領)精力的に議論を展開し、合衆国憲法の父ともよばれました。

議論の末、議会の議員数は各邦の利益のバランスをとったコネティカット案が決まります。これは、連邦議会の上院を各邦2名、下院を人口比とする合意です。任期は上院6年、下院2年です。

1787年9月、全7条の合衆国憲法が採択されます。

前文には、「ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ」の国号が明記され、「われわれ合衆国の人民がより完全な連邦を形成」することが謳われました。第一条に連邦議会、第二条に大統領、第三条に連邦最高裁などに関する規約が盛り込まれ、当時の啓蒙思想家たちが描いた三権分立のデザインを実体化させました。

アメリカ合衆国憲法に署名する様子

3. 「連邦派(フェデラリスト)」と「反連邦派(アンチ・フェデラリスト)」

しかし、この憲法は邦の権限を制限しているだけでなく、連邦レベルに権限を大きく集中させています。

このことは、革命期の人々が、自分たちの邦の主権に忠誠を尽くしていたことや、中央集権化された政府の権力に根強い警戒心を持っていたことを考えると驚くことでした。

この憲法ができたのは、1780年代に各邦が抱えていた「不公正で混乱を招く法律を頻発するという邦議会での民主政治の濫用」という問題に際し、中央政府の再構築が望まれたからだったのです。

各邦では、憲法の批准をめぐって意見が分かれ、批准に賛成の人々は「連邦派(フェデラリスト)」とよばれました。

一方、より分権的な連邦の仕組みを求める人々は集権的な新憲法の批准に反対し「反連邦派(アンチ・フェデラリスト)」とよばれます。

両者の対立は、連邦派(フェデラリスト党)と共和派(リパブリカン党)の党派対立へ展開していきます。

1788年、連邦派のアレクサンダー・ハミルトンやマディソンは「ザ・フェデラリスト」を出版します。
ただし、マディソンはのちにハミルトンと決別し共和派の領袖のひとりになります。

※「ザ・フェデラリスト」の翻訳本は岩波文庫から出版されています。

連邦派は、連邦政府が強力な権限を有することの必要性を強く主張します。ヨーロッパ諸国に「アメリカは国際条約に値する国」と認められるためにも重要だと主張します。

反連邦派は、新たな政府や議会に非常に大きな権限が与えられ、それが無制限に拡大しうることを危険視しました。

1788年6月、反連邦派の抵抗がありながらも、発効に必要な9つの邦の批准を得て、合衆国憲法は発効しました。

1789年、第一回連邦議会が開催されました。大統領選挙により、ワシントンが初代大統領、ジョン・アダムズが副大統領になりました。

第一回連邦議会の重要なこと一つとして、州レベルではすでに規定のある人権関連の条項を合衆国憲法に盛り込まれました(修正1~10条を「権利の章典」といいます)。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

次回に続きます。


編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2024年3月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。