資料室:1977年春、戦争はまだ海の向こうで始まるものだった。

次の仕事のために村上龍さんの『海の向こうで戦争が始まる』を読もうとしたら、どうも文庫が品切れみたいで驚いた。僕でも名前を知ってるくらいだから代表作の一つと思うけど、もう半世紀近く経つのだからしかたないのかもしれない。

『戦争が始まる』は村上龍の第二作で、まず『群像』の1977年5月号に載り、翌月に単行本になった。はっきり言ってストーリーはまったくなく、ビーチ(国も不明だが海外と思われる)でドラッグをキメて水平線を眺め続ける男女の目には、海の向こうに見える蜃気楼のような国で戦争が始まる様子が映る。その幻覚のような世界が延々綴られる中編である。

とはいえタイトルに反して、肝心の戦争が始まるまでが実に長い(というか始まることで小説は終わる)。軍人らしき男性が描かれるなど一応伏線はあるものの、ようやくその予兆となるシーンの描写はこんな感じだ。

蟻の巣のように広場の人間共をみんな踏み殺せたらどんなにいいだろう、全ては汚ならしい嘔吐物だ、全ては母親のあの吹出物だ、汚なくて臭く腐れていて痒い、切り裂く必要がある。祭なんか要らない。戦争が始まればいい。一度全てを切開して破壊して殺してしまうのだ、母親はまだ生きているだろうか、戦争は始まらなければならない、母親は鏡を見ていないだろうか、母親はすでに狂ってはいないだろうか、母親は自分を待っているだろう、洋服屋は痒みに耐えてズボンをはいた。

『村上龍自選小説集5』集英社、95頁
(強調は引用者)

幻視される町に住む洋服屋の、母親は重篤な病で入院し、肌には吹出物(どちらかというと蕁麻疹か)が湧いてしまっている。そのため本人が自分の病んだ姿を見ないように、洋服屋は病室の鏡をわざと壊し、彼女に頼まれたメロンを買うために外出したが、広場でトラブルに巻き込まれイラついているという場面である。

村上龍は前年の1976年に、『限りなく透明に近いブルー』が群像新人文学賞を受賞してデビューした(同誌6月号掲載)。この時点ですでに世間の話題を席巻していたが、翌月に芥川賞も受けたため、1956年の石原慎太郎(『太陽の季節』)のようなセンセーションになる。単行本と文庫を合わせると、いまも芥川賞作品の発行部数として歴代1位らしい。

『透明に近いブルー』の筋も、クスリやりながら米兵と乱交パーティーしてるだけと言えばそうなんだけど、『群像』での受賞時にはそうした性描写が「濡れた体をなるべく短時間で乾かそうとしているかのよう」(井上光晴)・「タブーがない空虚感」(遠藤周作)・「いやらしそうでいやらしさをおぼえさせぬ」(小島信夫)・「いや味も誇張もなくセックスを描く平静性」(埴谷雄高)と評された。要は素材に比して、描写がエロティックでないということだ。

芥川賞の選評では、当時の文壇で男女の性を描くお手本のように見なされていた吉行淳之介が、その点についてこう留保を附している。

「性行為を描いて清潔」という世評があるので、小むつかしいことをすこし言わせてもらう。日本流のリアリズムの文学では、女体や性行為などを描く場合、体臭体温その他のにおいを要求する。一方、それらを払い除けるために、なにか抽象的な考え方をその芯に置いて、力業をおこなう、という立場もある。
しかしこの作品の透明さはそういうものではない。作者の感受性・感覚のフィルターを透すと、おのずからそうなってしまう。こういう資質はやはり見のがすわけにはいかず(時代もそれで間に合うようになってきている)作品の退屈さには目をつむって、抜群の資質に票を投じた。

『芥川賞全集11』文藝春秋、341-2頁

次回作となった『戦争が始まる』での、以下のような描写は、たぶん先輩作家のそうした講評へのアンサーなんだと思う。ただ、やっぱりなんか変だよね。むりやり身体感を出そうとしているんだけど、かえって観念的で、むしろ透明な世界で人工的に作られた印象を受ける(だから現に、ラリって見ている幻想のシーンなんだけど)。

しかし、考えてみろ、恐怖の裏側にはいつも何があった? 恐怖の向こうにあるものは何だ? それは熱狂と興奮と恍惚だ、戦争は退屈しない、きょう一日何をしようかなどと考える必要はない、人間の肉は柔らかいものだ、お前達が考えているよりはるかに柔らかいぞ、少なくとも、見飽きた女とのあれよりはいい気分になる、これだけは間違いがないことだ、銃剣が人間にめり込むのを見るのはたまらないことだ、オートバイで道路をふっとばすのとはわけが違う、血が噴き出す穴を見たことはないだろう? 女のあそこよりヌルヌルしていて、お前らも一度やると一生忘れられなくなるのさ、

『村上龍自選小説集5』、100-1頁

自分や好きな人の肌に湧いた発疹を切除して、ツルツルと滑らかで不快さのない状態を回復したい。そうした欲求の表現として「戦争」が呼び出されるのだけど、それゆえに生まれるイメージは抽象的で、つまりキラキラした清潔な透明さの内側に留まっている。自分は暴力がぶつかり合う現実を知っている! という人に限って、言うことがリアルじゃなかったりするように。

「冷戦のはらわた」と銘打った『自選小説集5』の解説文で、椹木野衣氏は村上龍のデビューした1976年が、「戦後の日本において、政治経済的に、軍事的に、したがって文化的にもそうだが、もっとも緊張感を欠いた頃」だったと指摘している(743頁)。卓見だと思う。ベトナム戦争が終わり、学生運動も石油危機も沈静化し、一方でバブル景気にはまだ遠かった。

だが1970年代をここまで平穏で、戦争や暴力はもっぱら透明なガラス越しに眺めればよい時代として迎えた先進国は、他になかった。前回も書いたように、欧米ではむしろ正反対だった。以前に共著でも指摘したことだけど、どうにもその時の幸運のつけを、私たちは陸の向こうで戦争が始まった2020年代に払わされている気がしてならない。


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年4月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。