今月下旬に『倫理的なサイコパス ある精神科医の思索』を刊行される尾久守侑(読みは「おぎゅう・かみゆ」。詩人としても知られる)さんと、来月に書店イベントやります。
6/6(木)19:00~、代官山の蔦屋書店にて。現地での観覧のほかに、Zoom視聴のチケットもあるので、遠隔地の方もご参加いただけます。詳しい情報はこちらをご覧ください。
尾久さんとは面識がなく、当日が初対面になります。また『倫理的なサイコパス』というのも物騒で、奇妙なタイトルですが、版元の晶文社さんに抜粋を送っていただいて、「ぜひお話ししてみたい!」と即決しました。
著者本人による、「倫理的なサイコパス」概念の説明は、以下のとおり。
部屋に入るなりいきなり患者が「先生がこの間言った言葉で私は傷つきました。あの「あなたは優しいから」というのはどういう意味で言ったんですか。馬鹿にしてますよね。謝ってくださいよ」などと、まったくの勘違いで怒鳴られてものすごく怖く嫌な気持ちになり、ああ、この怖く嫌な気持ちこそがふだんこの患者さんが厳しい夫に怒鳴られたときに感じているものなんだろうなあ、みたいに本人の辛さを理解する〔のが理想だが…〕
(中 略)
一日で50人患者を診るとして、全員にこれをやられるとこちらの精神が崩壊してしまうので、そうならないよう ”サイコパス” 的に考えることで、こちらの精神の健康を保つのである。さっきの例で言えば「この患者さんは境界性人格障害だから仕方ないな。まったくよく怒鳴るもんだ。でも以前診ていた○○さんよりは症状が軽いな」みたいに ”病気” 扱い、ないしは ”カテゴリ” に落とし込むことによって、直接その人の心に触れないようにするわけである。
”サイコパス” 的に考えるとは、あるところで、全員の心を平等に考えるのをやめ、時間と気力を最適化することである。社会的なお仕事としての診療を完遂するには必要なわけだが、本当に一人ひとりをちゃんと診ていることになるのか、という問題は残る。
『倫理的なサイコパス』12-13頁
強調は引用者
このエピソードだけでも、色々と考えちゃいますよね。
僕流にいうと、(自分の観点では)イミフな主張を叫ぶ人を見たとき、「しかしこの人なりには、そうなってしまうゆえんがあったのかな」と個別の過去を遡るのは歴史がある社会のやり方。逆に「あぁ、コイツどうせ○○でしょ」とグルーピングして相手の内面を見ないのは、歴史なき社会の表われなんですよね。
今は「お前女だから」「お前日本人だから」みたいな、近代に猛威を振るったジェンダーやレイシズムのカテゴリー分けは表向き抑制されているので、「○○系」「△△世代」「××症候群」……云々の、正体不明な新ラベルがどんどん湧いてはバズり、消えてゆく。歴史がなくなるとは、そうした転換を指していたのかなとも思います。
尾久さんも直前の箇所で言及するように、相手の個別性を見る(診る)ことを諦め、カテゴリーへの振り分けで効率と最適化を図る営為は、救命医療のトリアージに似ています。ある意味ですごいサイコパスだけど、でもやらないと医療体制を維持できない。だから、「倫理的なサイコパス」。
今の日本が変なのは、「究極的に考えると」最後はトリアージの論理に直面する、という省察を、「だったら初手からいきなりトリアージでいいんじゃね?」にすり替える人が増えたからでしょうね。哲学ブームで一時流行った「トロッコ問題」も、そうした話に行きがちでした。
彼らは倫理的でない “タダのサイコパス” ですが、しかし今日の社会では、ふつーの人ほど経済学者がビビるくらいの「純粋な消費者」になり、相手の顔を見ずに効率性ばかりを追い求めがちな点は、前回採り上げた『Z世代化する社会』でも見たとおり。
そんな現在をどう診断するのか。医師と患者の双方の視点から、迫る対談になればと思っています。多くの方にご参加いただければ幸いです!
P.S.
代官山蔦屋書店さんと言えば、2019年に臨床心理士の東畑開人さんと最初にお会いしたのも同店のイベントでした。当日の抄録はこちらから。
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年5月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。