昨日の「長崎市の鈴木史朗市長の判断を支持する」という題名の記事を書いた。8月9日当日の平和祈念式典では、鈴木市長は、毅然とした平和宣言を行った。
これに対して「日本政府」の「与党幹部」や「外務省幹部」が、あたかも鈴木市長が浅はかで害悪な存在でしかないかのような印象操作を、メディアを通じて行ってきているようである。
だが「岸田首相が重視する核軍縮の取り組みに悪影響が出ないか」「『核なき世界』に向けた機運づくりに水を差す恐れがある」などといった話を作り上げるのは、残念である。裏付けとなる実績がなさすぎる。
イスラエルに気を遣い、核保有国の顔色を窺っていれば、「核なき世界」が達成される、などといった夢物語を、責任をもって公に発言できる政治家や官僚が、一人でもいるだろうか。匿名を条件に時事通信の記者に雑談してみる時だけの作り話だろう。深夜残業ばかりなので無駄な業務を作らないでほしいという個々の官僚の思いはあるのはわかるが、それで長崎市長を責めるのは、お門違いである。
昨日の記事に追記をしておきたい。
長崎市の鈴木史朗市長は、「平穏かつ厳粛な雰囲気のもと、円滑に式典を行いたい」から、イスラエルを招待しない、と説明した。
これに対して、招待しないこと自体が政治的になっている、という批判がある。「平穏かつ厳粛な雰囲気」が損なわれかねない理由として、反イスラエルの運動が起こったりすることを想起する場合も多いようだ。そこでイスラエルのコーヘン大使や、アメリカのエマニュエル大使は、安全面の問題はない、などといったことを力説し、市長が政治判断をした、といった糾弾を繰り返している。
長崎市は「平和を祈念する」ために式典を開催するわけなので、その基本に立ち返って政策判断を説明するのは、原則的で正しい態度である。それをふまえれば、市長の説明に、イスラエルを招くと被爆者を含む真摯な式典参加者の心の平穏が乱される、という意味も含まれていることに気づくことができるだろう。今年6月にイスラエル不招待が鈴木市長によって示唆され始めたのは、平和宣言を起草する作業において、イスラエルの取り扱いが、大きな論点となったためだ。
イスラエルの問題を看過することは、市民の声を無視することに等しい。そういった苦悩を、鈴木市長が抱えていたはずだ。平和宣言の中でイスラエルを名指しで糾弾することは避けながら、何も気にしていないかのように参列してもらうこともまた避けた。それが長崎市民のために長崎市長として長崎市の平和祈念式典を主催する鈴木市長の判断だった。
これに対してイスラエルのコーヘン大使は、「(鈴木)市長が式典乗っ取った」と意味不明な発言をしたと報じられている。式典が長崎市が主催する行事であることを知らない誤解にもとづく、又はそれを政治的動機で意図的に無視した発言である。
これに日本の官僚が、長崎市長よ、長崎市民のことなど忘れ、霞が関の官僚の負担のことをまず考えて行動せよ、と言わんばかりの態度で相乗りしている。
もちろん、イスラエルを招待しないことに、一定の政治的含意が生まれることは当然だろう。ロンドン大学LSE、ジョージ・ワシントン大学、タフツ大学フレッチャー・スクールで、国際政治経済、国際法、国際関係の修士号を取得している鈴木市長が、政治的含意に気づいていないはずはない。
ただ、政治的含意を裏付ける理由について、鈴木市長が、国際法や国政政治の知識を駆使して、イスラエルの評価を披露するとしたら、式典開催責任者としての鈴木市長としては踏み込みすぎだろう。政治的事情を把握したうえで、しかしその「政治的事情」それ自体ではなく、ただ政治的事情がもたらす市民の懸念に配慮して、判断をするのは、長崎市長として妥当なことだと言える。
昨日の記事で、第二の論点として、イスラエル不招待の一貫性の問題を述べた。長崎市は、ロシアとベラルーシに加えて、イスラエルを招待しない、という措置をとった。なおパレスチナは招待した。
これに対して、むしろ全ての諸国を招待して共に平和を祈る機会とすべきだったのではないか、という意見と、三カ国のみでなくもっと不招待国を作るべきではないか、という意見がある。
鈴木市長は、むしろ全ての諸国を招待する方向に関心があるようだ。鈴木市長は、「(イスラエルが)紛争当事国であるからこそ呼ぶべきだと思っている。でも、呼んだことによる式典に与える影響を鑑み、総合的に判断した」とも述べた。
鈴木市長は、2023年4月に市長に就任した。2022年にロシアとベラルーシを招待しない判断をしたのは、鈴木市長ではない。全ての諸国を招待したうえで、平和を祈念する姿勢は、一貫性があるだろう。その判断は、来年以降の平和祈念式典開催の際に、なされることになるだろう。
ただ前市長の判断を覆して、ロシアとベラルーシの招待を再開することもまた大きな判断になるため、今年についてはイスラエルの招待を見合わせる方法をとったことは、責められるべき態度とは思われない。
第三の論点は、日本政府と地方自治体の関係の問題である。G7大使の意向は外交問題なので、地方自治体で判断すべきではなく、日本政府の判断に従うべきだ、という意見がある。長崎市が、被爆都市として、平和祈念式典を催す特別な地位を持っているがゆえに生まれる論点であると言える。
原則論としては、式典の主催者は長崎市であり、平和を祈念するのは長崎市における被爆の歴史を鑑みてのことであるので、長崎市が、長崎市の持つ価値観にしたがって、判断するのが当然である。
もちろん日本政府にとってG7諸国との関係は重要だ。だが、だからといってイスラエルの扱いという国際世論が沸騰している問題について、強引に長崎市の判断を捻じ曲げようとすることが外交的に妥当だとは言えないだろう。
G7以外の諸国では、欧米諸国以外では、あるいは欧州においてすら、イスラエルに厳しく批判的な声は根強い。それらの声を全て無視して、ただG7諸国にだけ追随することが、日本外交として最も賢明な姿勢だとは到底言えない。
長崎市の立場を尊重することは、総合的な観点から見れば、日本外交にとっても、むしろ意義のあることだと思われる。