なぜキリシタン弾圧が行われたか:キリスト教に危険を感じた江戸幕府

東京の知人からメールを頂いた。日本のキリシタン弾圧について情報を収集しているとのことだった。キリシタン弾圧は江戸時代初期、江戸幕府によって厳しく行われた。その中心人物とみられている人物が井上筑後守政重だった。

オーストリアのローマ・カトリック教会のシンボル、シュテファン大聖堂

井上筑後守政重(1576~1651年)は、江戸時代初期の旗本であり、幕府の要職に就いていた。彼はキリスト教徒(キリシタン)の取り締まりや弾圧に積極的に関与したことで知られている。

江戸幕府は、初代将軍徳川家康の時代から徐々にキリスト教を禁止する方針を強め、次第に厳しい弾圧政策を展開した。井上政重は、特に徳川家光(家康の孫、江戸幕府第3代将軍)の時代にその役割を担った。彼は、キリシタン取り締まりの最高責任者として、転びバテレン(棄教した宣教師)や隠れキリシタンを厳しく追及したという。

彼の弾圧政策は、長崎や天草などのキリスト教徒が多く住む地域で特に厳しく、キリスト教徒を捕え、拷問や処刑にかけた。また、宣教師の追放や、島原・天草一揆(1637~1638年)後の残党狩りにも深く関与した。

井上政重は、幕府の安定を最優先に考え、異国の宗教であるキリスト教を脅威と見なしていた。彼の厳しい政策は、幕府の統治方針に合致しており、その影響で日本国内のキリスト教信仰は徹底的に弾圧され、江戸時代を通じて地下に潜伏する形で信仰が続けられていくことになる。井上政重のやり方は江戸時代の宗教政策において際立っており、彼の名はキリシタン弾圧の象徴として語り継がれている。

以上、江戸時代のキリシタン弾圧に関する基本的情報をまとめた。知人はキリシタン弾圧の中心人物、井上筑後守政重の思想、その生き方に関心があるという。

知人のメールを読みながら、当方はキリシタン迫害について考えた。そしてキリシタン迫害の首謀者と見られている井上政重という人物について考えた。井上が生きた江戸初期時代は上下関係がはっきりとし、下は上の命令に従う時代だ。その時代に生きた一人の旗本にとって、上からの命令に従う以外に他の選択肢はなかったはずだ。ゆえに、問題の核心は、井上の思想、生き方というより、キリスト教がなぜ日本社会では受け入れられなかったかにあるはずだ。換言すれば、なぜ江戸幕府はキリスト教に危険を感じたかだ。

キリスト教は唯一神教だ。「父なる神」以外を信仰する人は異端者、異教徒として時には迫害されてきた。神々と共存してきた日本人にとって、キリスト教は外来宗教だ。

神学者ヤン・アスマン教授は、「唯一の神への信仰(Monotheismus)には潜在的な暴力性が内包されている。絶対的な唯一の神を信じる者は他の神を信じる者を容認できない」と説明する。唯一神教のキリスト教にとって自身の信仰、世界観が真理であり、他は異教徒だ。異教徒を弾圧するか、宣教して改心させるかの2つの選択肢しかない。唯一神教は排他的となり、神は「妬む神」と呼ばれた。

16、17世紀の江戸時代のキリシタン弾圧は、キリスト教自体がアスマン教授がいうように「教えの非政治化」がまだ実施されていない時代の話だ。すなわち、20、21世紀の過激なイスラム教と同じような立場だ。だから、江戸幕府はキリスト教宣教師を初めてみた時、「自身の世界を破壊する侵略者」と感じとったとしても不思議ではない。それ故、幕府は次第にキリスト教弾圧を強化していったのではないか。

一方、江戸幕府の要人、井上にとって懐に刀を忍ばせているキリスト宣教師たちを敵とみなし、その外来宗教を信じるキリシタンは抹殺しなければならない対象と写ったのだろう。井上にとって幕府は絶対的な世界だ。それを揺るがす外部からの侵略に対しては排斥する以外に幕府の安定を維持できない。結局、絶対的な世界観を有するキリスト教と絶対的な支配体制の幕府は衝突せざるを得なくなっていったわけだ。

同じ外来宗教の仏教、儒教などの宗教がキリスト教徒のような迫害を受けずに済んだのは、彼らは自身の教え、世界観を絶対視せず、社会の調和、統合を重視していったからではないか。もちろん、仏教でもその宗派間の対立、紛争はあったし、政治権力との癒着問題も生じた。その意味で、キリシタン迫害とは別の試練があった。

ちなみに、バチカン教皇庁は、日本のキリシタン弾圧について長年にわたって関心を寄せ、研究を進めている。その目的は、日本のキリシタンたちが経験した迫害の歴史を記録し、日本でキリスト教徒がどのように迫害されたかに関する文書や報告書を収集することだ。特に隠れキリシタンの信仰とその文化に関心を有している。隠れキリシタンがどのようにして信仰を守り抜いたか、彼らが用いた象徴や儀式の解明も行われているという。

21世紀の日本社会は世俗化し、宗教一般に関心が薄れてきているが、新しい宗教には依然排他的だ。それが外来宗教であり、明確な世界観、神観を有している場合、猶更だろう。一種の防衛本能だ。「世界の神々」が歩み寄り、和合できる世界は実現できるだろうか。

<参考資料>
①「『妬む神』を拝する唯一神教の問題点」2014年8月12日
②「旧約の『妬む神』を聖書から追放?」2015年5月7日
③「願われる『世界の神々』の歩み寄り」2019年11月3日
④「ユダヤ人が嫌われる『2つの理由』」2021年5月22日


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2024年8月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。