昨日の記事では、クルスク作戦が、ロシア・ウクライナ戦争の新しい段階を示しているようであることを示唆した。
それは、停戦の機運が遠のいた、ということを意味する可能性が高いと思われる。
巷では、ウクラナイは占領した領土を交換条件にできるので、ロシアとの停戦交渉を有利に進めることができる、といった主張が多々見られる。だが対象とる領土の面積、人口、重要性のいずれをとっても、ロシア支配地域とは全く比較の対象にならない。
今のところウクライナ軍が制圧したのは、人口6,000人程度とされる国境から10キロの町スジャと、その周辺の農村に散在する「集落」だけである。占領した領土はかなり象徴的なものでしかない。戦線は国境線にそって東西に伸びているが、ウクライナ軍がロシア本土に向けて北上することは、難しくなってきている。
交換条件を成り立たたせる計算が著しく難しいくらいに小さい範囲の人口過疎の地域である。これでロシアが、停戦交渉に駆り立てられるはずはない。むしろプーチン大統領は「一切の交渉の可能性を拒絶する」と宣言した。それが実際に起こっていることである。
なおスジャに欧州向け天然ガス輸出量の半分を占めるパイプラインがあるのは、重要な事実だ。だが、それは何を意味するのか。
折しもノルトストリームを爆破したのがウクライナであったことが判明するスキャンダルが話題になっている最中である。天然ガスを止めて苦しむのは、欧州諸国だ。これによってハンガリーを脅かして、ウクライナ寄りの立場をとるように圧力をかける、などということをしたら、ハンガリーが半永久的にウクライナの敵になるだけではない。ウクライナへの欧州人の信任もさらに低下するだろう。自分の首を絞めるだけである。
理論的に考えてみよう。紛争解決論の分野に、ウィリアム・ザートマンの「成熟(ripeness)理論」という見取り図がある。「相互に痛みを伴う膠着(mutually hurting stalemate: MHS)」状態の程度に応じて、紛争終結の「成熟度」を測定する、という視点である。ザートマンは、1990年代のアメリカのシンクタンクで、第三者紛争調停にあたる立場を最も具体的に想定して、「成熟理論」を展開した。
私が大学教科書として執筆した『紛争解決って何だろう』(ちくまプリマ―、2021年)は、ロシアのウクライナ全面侵攻より前に公刊したものだが、一般論の観点からザートマンを紹介している。
ザートマンのメッセージを一言でまとめると、次のようになる。紛争調停者に必要なのは、タイミングを見極めること、である。口が上手いとか権威があるとかはあまり関係がない。
タイミングが全てだ、という視点で、重要になるのは、時間軸を強く意識して、戦争を分析する、ということである。その際、調停を入れるタイミングの政策的見極めとして最も重要になるのが、相互疲弊の極限化の状況を見極めることである。疲弊の極限化が紛争当事者に認識されているかどうかも、副次的には問題になる。とはいえ、客観的な認定ができれば、それを当事者に伝えて覚知させることもできる。
ロシア・ウクライナ戦争では、2022年末くらいから戦況が膠着し始めた。アメリカの大統領選挙の日程もにらみながら、ウクライナが勝負をかけた「反転攻勢」をかけたのは、23年夏前であった。
しかしこれは目立った成果をあげることなく、事実上の終了となり、冬を迎えた。その後は、さらに膠着が続いた。それは、ザートマンが言う停戦の「成熟」が近づいていることを、関係者が感じ始めた段階であったはずだ。
プーチン大統領は、ロシア側の強い要求を内容としつつ、いずれにせよ停戦合意に意欲的であることを表明した。アメリカ大統領選挙でトランプ大統領の勝利の可能性が高かった時期、ゼレンスキー大統領の発言にも変化が見られ、次回の「平和サミット」にロシアを招きたい、といったことを積極的に強調するようになった。
しかし本当は、ゼレンスキー大統領のウクライナ政府は、基本的には戦争継続を望んでいる。アメリカの議会の空転や、大統領選挙におけるトランプ前大統領優位の見込みをふまえて、態度をわずかに柔軟にさせたにすぎない。
ここで重要なのは、最大の支援国であるアメリカのバイデン政権関係者も、同じように考えているだろう、ということである。本来であれば、23年の段階で、ウクライナに「反転攻勢」を成功させてもらい、巨額のウクライナ支援を行ってきたバイデン大統領の成果として示してもらい、バイデン大統領の再選に貢献してほしかった。
結果として、それはかなわなかった。しかしハリス副大統領が新たに大統領候補となった。世論調査の結果も良好である。あと3か月短期決戦でトランプ前大統領に勝つことができる可能性も出てきた。そうなるとバイデン政権の民主党関係者は、3カ月程度続くだけの短期的な効果しかない作戦でも何でもいいので、ウクライナ軍に目立った華々しい象徴的な戦果をあげてほしい、という欲求を強く持つことになる。
今回のクルスク攻勢について、バイデン政権関係者は事前に知らされていなかった、と言っている。ただしゼレンスキー政権関係者は、支援国と協議した、と説明している。事実の詳細はともかくとして、両者の、少なくとも党派的な、利益の一致点は見えている。
ただし、ロシア・ウクライナ戦争の時間軸から見た展開で言えば、クルスク攻勢は、ロシア・ウクライナ戦争の新しい段階を意味する。ウクライナ側が意図的に、キーウから400キロ強(モスクワまでは600キロ以上ある)の地点に、新しい集中的な戦線を開いた。これによって東部戦線から部隊を引き離してクルスク方面に転用させる「牽制抑留」を強いているのだという。
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だが、もしそうだとすると、ウクライナは、首都キーウから600キロ以上離れた地域で展開している戦線を、キーウから400キロの地点にあえて引き寄せる試みを行っていることになる。確かにクルクス地域は、東部戦線の地域よりもモスクワにも近いのかもしれないが、圧倒的にキーウの方が近い。「ロシア領に入った」という象徴的な意味を度外視すれば、いったいウクライナは何を守ろうとしているのか、ウクライナの行動に合理性があるのか、疑問が残る。
いずれにせよ、クルクス攻勢は、ザートマンの「成熟理論」が成立するのを、妨げた。新たな戦線による戦争の新しい段階の発生によって、「MHS」の計算式が狂った。
これによってどちらの当事者が戦争の行方に関して有利になるのかは、まだわからない。わかっているのは、戦争の継続を望んでいる者が、その戦争継続の目的を達成した、ということである。
仮に自国の側が損失を増大させる不利益があるリスクが伴っている行動であっても、当事者が決死の覚悟で戦争継続を望むのであれば、もちろん「MHS」による「成熟」の成立は妨げられる。
第三者がその非合理性を説くならば、当事者は戦争継続に賭ける判断を躊躇するかもしれない。しかし最大の支援国が、むしろ戦争継続それ自体を目的にした冒険的行動を推奨するのであれば、当事者はそちらのほうに誘われていくだろう。
今、ロシア・ウクライナ戦争で起こっているのは、そのような状態であるように見える。