自民党総裁選で誰もふれない「部屋の中の象」

池田 信夫

今回の自民党総裁選は、近年まれにみる混戦である。その原因は、今まで候補者を調整していた派閥が(麻生派を除いて)解散され、調整役がいなくなったからだ。しかし各候補の政策を見て気づくのは、日本社会の最大の問題に誰もふれていないことだ。

Forbesより

「老人医療9割引」というタブー

それは急速に進む高齢化である。特に来年は団塊の世代が75歳の後期高齢者になって医療費が9割引になり、社会保障給付が激増する「2025年問題」が起こる。それはずっと前から政治家なら知っているはずだが、岸田首相も言及しない。

このように問題が大きすぎて口にできないタブーを部屋の中の象という。口にすると対策を立てないといけないが、それは後期高齢者の医療費を見直すことになり、有権者の反発をまねくからだ。

老人医療は田中角栄以来、30年間も実質無料だった。それに2001年に初めて手をつけたのは小泉首相だが、9割引にしただけだった。それを菅首相が2021年に一部8割引にしたが、このときも公明党が抵抗して中途半端に終わった。

財政健全化をめぐる論争はあるが、大した問題ではない。見通せる将来に財政が破綻するとかハイパーインフレが起こる可能性はない。問題は今このゆがんだ社会保障によって貧しい現役世代から豊かな高齢者への所得逆分配が起こっていることなのだ。

現役世代から高齢者への「所得逆分配」

高齢者は将来世代から巨額の「仕送り」を受けており、その生涯所得には1億円以上の差がある。このため貯蓄率は年齢とともに上がり、60歳以上が貯蓄の71%を保有し、金融資産保有額は死ぬとき最大になる。

小川製作所

2000兆円の家計金融資産のうち1400兆円が高齢者の貯蓄として死蔵されているのは、年金などの現役世代から高齢者への所得移転が消費より多いからだ。

これは単なる社会保障の問題ではない。過剰な老人福祉が、貯蓄過剰という日本経済の最大の病の原因なのだ。この逆分配は来年からさらに悪化し、成長率は下がり、円安が進むだろう。

社会保障という日本最大の既得権

この問題を指摘しているのは、日本維新の会と幸福実現党だけだ。公明党はこれに反発し、自民党は沈黙している。

総裁候補がみんな沈黙しているのは、この問題を知らないからではない。老人票の恐さをよく知っているからだ。もしある候補が維新のような公約を出したら、選挙区から「医療費3割負担で選挙は戦えない」という批判が続出し、決選投票にも残れないだろう。

日本が緊縮財政だというのは、見当違いもはなはだしい。社会保障給付は、戦後一度も減ったことがない。前回の総裁選では、河野太郎氏が最低保障年金を提案したが、他の全候補から袋だたきにあい、引っ込めてしまった。社会保障は、誰も手をふれられない日本最大の既得権なのだ。

社会保障が抱える巨額の「簿外債務」と「支援金」

見て見ないふりをしていれば、象は部屋から出て行ってくれるだろうか。残念ながらそうは行かない。次の図のように医療・介護のコストは今後15年で30兆円も増え、その6割が老人医療費(65歳以上)である。社会保障給付は全体で190兆円になる。

厚労省の資料

このコストの一部は社会保険料でまかなうが、今年度の場合、140兆円の社会保障給付のうち保険料は80兆円。残りの赤字は一般会計で穴埋めする。この赤字は特別会計の簿外債務である。

これを「将来世代へのツケ回し」と呼ぶのは正しくない。それはいま現実に起こっている現役世代から高齢者への逆分配なのだ。その規模は毎年60兆円で、国と地方の裁量的経費の半分を超える。

さらに後期高齢者への給付費15.3兆円の赤字のうち6.3兆円をサラリーマンの健康保険料からの(保険料でも税でもない)支援金で埋めている。サラリーマンの払う健康保険料の半分は、自分の親でもない後期高齢者に仕送りされているのだ。

厚労省の資料

このまま9割引医療を放置すると、全世帯の3割負担も維持できない。今の40代が高齢者になるころには、5割負担でも足りなくなるだろう。

先送りしていると問題はどんどん大きくなる

9割引医療は氷山の一角である。社会保障特別会計の簿外債務は今後40年で、年金債務だけで1100兆円にのぼる。医療・介護を含めると2000兆円近い。この象は成長する象なのだ。問題を先送りしていると、そのうち象は会議室の机を踏みつぶし、ドアを破り、建物を食い尽くすだろう。

1990年代には銀行の簿外債務を海外に隠す「飛ばし」が流行した。これで見た目には銀行の帳簿はきれいになるが、不良債権は残っているので、最後は誰かが払わないといけない。山一証券が自主廃業した原因も、この簿外債務だった。

日本経済を破壊した不良債権はたかだか100兆円だったが、今度はそれより一桁大きい。そのダメージは、来年から決定的に大きくなる。現役世代の負担は激増して世代間格差は拡大し、国民負担率は50%を超える。

この問題は国会の多数決では解決不可能だが、首相に決断力があれば不可能ではない。小泉首相や菅首相のような決断のできる自民党総裁を選ぶ必要がある。