8月14日の「月刊Hanadaチャンネル生放送」にゲスト出演した猪瀬直樹氏が、自著『昭和23年冬の暗号』(中公文庫)を紹介していた。番組の放送日が終戦記念日の前日、また昭和23年冬と言えば東京裁判の判決が下され、A級戦犯7人が処刑された時期なので、何が書かれているのか興味が湧いた。
数日後、図書館で借りた同書を「初出の時期」「参考文献」「あとがき」「目次」の順で読み始めた。「文春文庫版のためのあとがき」に「本書は2009年11月、文藝春秋から刊行された単行本『ジミーの誕生日』を、文庫化にあたり『東条英機 処刑の日』と改題したものである」とある。とすると今の題名は3度目のものらしい。
「参考文献」には、〇昭和天皇 〇昭和天皇・マッカーサー会見 〇マッカーサー 〇皇太子明仁 〇東条英機 〇時代史前半 〇御前会議・宮城事件 〇総司令部/占領政策 〇東京裁判 という9項目についてそれぞれの参考文献が書かれ、最後に「*子爵夫人に関わる記述に一部フィクションを加えてありますが、この物語はすべて事実に基づいています」と記されている。
「物語」は、「子爵夫人」の日記にある「ジミーの誕生日の件、心配です」との一文の謎解きを、日記を読んだ孫娘が猪瀬氏に依頼する手紙から始まっている。前記の「*」にある「フィクション」に、この孫娘からの手紙も含まれるのかどうか読む者には判らない。
が、先に謎を解いてしまえば、マッカーサーは意図して、皇太子の誕生日12月23日にA級戦犯7人の処刑を行ったというのが猪瀬氏の解だ。なお、「ジミー」というのは、戦後に皇室の家庭教師を務めたヴァイニング夫人が明仁親王につけたニックネームである。
では、昭和23年11月12日に判決が下されてから死刑が執行された12月23日までのおよそ40日間、マッカーサーは皇太子の誕生日に合わせて死刑を執行するために待ったのかと言えば、史実はその様なことを示しておらず、その間に起こったある事態のために執行を延期せざるを得なかったのである。
児島襄氏が『中央公論』に1970年4月号から1年間連載し新書化された『東京裁判(下)』(中公新書1971年刊)、及びこの裁判の大部分を傍聴した冨士信夫氏が1986年に自費出版し、後に講談社が出版した『私の見た東京裁判(下)』(講談社学術文庫1988年刊)から、この辺りの出来事を時系列に挙げると次の様になる(全て日本時間)。
- 11月12日 判決・量刑言い渡し。
- 同上 マッカーサーが減刑の訴願があれば19日までに提出せよと発表。
- 同上 ブラナン弁護人が前記訴願とは別に、米最高裁に裁判の不法訴願提出を準備。
- 11月22日 マッカーサーが連合国11ヵ国の代表から判決について意見を聴取。
- 11月24日 マッカーサーが判決を承認し、刑の執行を命ずる声明を発表。
- 同上 マッカーサーが第八軍司令官ウォーカー中将に、25日以降一週間以内の死刑執行を指 示。中将は刑場の用意は整っていると報告。
- 11月25日 ロイター電が処刑立会人は第八軍憲兵司令官ら米人5人らしいと報道。
- 11月29日 廣田・土肥垣担当のスミス弁護人がブラナン弁護人とは別に、両被告の判決再審査の訴願を米最高裁に提出。
- 11月30日 マッカーサーが米最高裁への訴願に関する記者の質問に対し、米最高裁の決定を待つ旨を言明。
- 12月7日 米最高裁がスミスの訴願を受理し、ブラナンの訴願と合わせて12月16日に聴取を行うことを決定。
- 12月20日 米最高裁で16日から行われていた訴願の聴取が終了し、訴願が却下となる。
- 12月21日 日本時間午前2時過ぎ、米最高裁の却下の報が日本に届く。
- 同上 マッカーサーが午前9時35分、ウォーカー中将に23日午前零時1分から死刑執行を開始するよう指示。
上記の通り、マッカーサーは11月12日の死刑判決を受けて、24日に一旦、翌25日から1週間以内の死刑執行を命じた。が、29日にスミス弁護人から米最高裁に訴願が提出され、却下の報が12月21日の夜中に届いた。そこで24日からのクリスマス休暇に入る前、即ち12月23日に執行された。
猪瀬氏自身も第六章で、12月7日にスミスの訴願が米最高裁で受理され、16日から公開の口頭弁論が始まり、21日午前1時に却下されたと書いている。よって、キーワードは「ジミーの誕生日」というよりは「クリスマス休暇の前に」とする方が妥当ではなかろうか、と筆者は考える。
が、単なるこれだけの出来事を、単行本一冊の謎解き物語に仕上げる猪瀬氏の筆力はさすがである。筆者も21年6月の拙稿「太平洋に散骨されたA級戦犯の遺骨に纏わるエピソード」に12月23日のことを含めて2600字ほど書いたが、単に史実を書き綴ったに過ぎない。
猪瀬書の史実の間違いは、ポツダム会談の主役の一人をスターリンではなく蒋介石と記述している(71頁)ことくらいか。確かに同宣言の署名の一人は蒋だが、これはバーンズ国務長官が日本と戦っていないソ連に代えて中華民国の蒋に差し替えた。しかも蒋の同意は、トルーマンがポツダムから電話を架けて宣言の内容を読み上げ、その場で取り付けた経緯がある。
それと、これは間違いではないが昭和天皇とマッカーサーの面談に通訳として立ち会った外務省の奥村勝蔵が、実は真珠湾攻撃の行われた日に最後通牒のタイプを打っていた大使館員その人であることを書き添えてあれば、更に興味深かっただろう。折角、奥村の手記も数か所引用しているのだし。
最後に一つ猪瀬書の難を挙げれば、参考文献に児島氏や冨士氏のそれにはある『極東国際軍事裁判速記録』と『共同研究パール判決書』が見当たらないこと。冨士氏の労作『私の見た東京裁判(上下)』も記述がないが、児島氏の『東京裁判(上下)』は書かれている。やはり猪瀬氏は「作家」である。
その証拠に、巻末に付された「予測できない未来に対処するために 文庫再刊によせて」という「2021年初夏」に書かれた「あとがき」的な一文が非常に興味深い。猪瀬氏が偶さか入手した「マレーシアの歴史教科書」の記述を基に、戦時の日本を振り返る洞察力の鋭さには何度も頷かされた。
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