太平洋に散骨されたA級戦犯の遺骨に纏わるエピソード

高橋 克己

BBCは6月15日、「Hideki Tojo’s ashes scattered by US, documents reveal(米国が東条英機の遺灰を散いた、文書が明らかに)」と報じた。高澤弘明日大講師がワシントンの国立公文書館で見付けた48年12月23日付の機密解除文書に、フライアーソン(Frierson)陸軍少佐が次のように記していた。

極東裁判 Wikipediaより

I certify that I received the remains, supervised cremation, and personally scattered the ashes of the following executed war criminals at sea from an Eighth Army liaison plane.
(私は、遺骨を受け取って火葬を監督し、処刑された次の戦争犯罪者らの遺灰を、私自身で第8軍連絡機から海上に撒いたことを証明する)

少佐は、火葬に使われた炉からは「遺骨のすべてを取り除き」、「遺骨の小さな欠片さえ見落とさないよう」特別な注意を払ったことや、「横浜東部の太平洋上約30マイル(48km)の地点まで飛んだ」ことまで書き添えている。

その東京裁判で死刑判決を受けた東条ら7名のA級戦犯は6名が軍人だった。唯一、文官だったにも関わらず広田弘毅は絞首刑に処された。城山三郎が広田の生涯を描いた「落日燃ゆ」(74年1月新潮社刊)は、次のような一節で書き出されている。

昭和二十三年十二月二十四日の昼下がり、横浜市西区のはずれに在る久保山火葬場では、数人の男たちが人目をはばかるようにしながら、その一隅の共同骨拾場を掘り起こし、上にたまっている新しい骨灰を拾い集めていた。

このエピソードを城山は清瀬一郎の著書から引いたに違いない。清瀬は京大独法科を首席で出て弁護士資格を得た後、衆院議員だった46年に公職追放された。が、同年5月3日に始まった東京裁判(〜48年11月)で東条英機の主任弁護人となり、日本側弁護団の副団長を務めた。

20年経って清瀬が上梓した「秘録東京裁判」(67年3月読売新聞社刊)には、小磯国昭の担当弁護人で久保山火葬場に近い保土ヶ谷在住の三文字正平が、数人を使って24日午後から27日の間にクリスマスの隙を突き、処刑された7人の遺灰の残り一升ほどを掘り出したと書いてある。

死刑が執行された23日に火葬され、遺族に引き渡されなかった遺骨についても、清瀬は、GHQ外交局長だったシーボルトの「日本占領外交の回想」の一節を引き、「死刑になった指導者たちの墓が、将来神聖視されることのないように遺灰はまき散らすことになっていた」としている。

7人の遺骨が散骨されることは、当時のGHQ要人によって斯く書き残されている。が、今回の国立公文書館での発見が、それを裏付ける貴重な一次資料の発掘であることは間違いない。特に「遺骨の小さな欠片さえ見逃さないよう」に、炉内の「遺骨すべてを取り除いた」との記述の辺りだ。

なぜなら、三文字らが盗み出した遺灰は、A級戦犯として処刑された松井石根が日中両戦没者慰霊のために、復員直後に建てた熱海の興亜観音に一旦隠され、59年に松井の郷里愛知県幡豆郡の三河湾公園に設けられた「殉国七士之碑」に埋葬されていることになっている。

つまり、フライアーソン少佐の記述が事実なら、三文字らが「拾い集めた」「上にたまっている新しい骨灰」はA級戦犯7名のものでないかも知れぬことになる。だが、筆者は三文字が盗み出した遺骨の残りは被告7名のものだったと信じるし、これまでの逸話のままで良いように思う。

なお清瀬は、遺骨散布はニュルンベルグで裁かれたゲーリングの顰に倣ったものらしいこと、また55年に進駐軍の命を受けたとして、7人の遺族が白木の箱に入った遺骨と称するものを厚生省引揚援護局で渡され、固辞した広田の遺族を除きこれを受け取ったとの二つの逸話を載せている。

ところで、刑の執行が11月12日の判決からひと月以上も経過した12月23日になされたことについても、当時の皇太子殿下の誕生日に合わせてGHQが執行したとの噂が巷間ある。が、筆者は偶然そうなったと考えていて、それには次の出来事が関係している。

47年3月5日、被告の間に「共同謀議」などなかったことの弁護側立証中になされた検察側の主張につき、ウエッブ裁判長は「検察側のこの説明は大いに審理の助けになる」とし、「弁護人の尋問は今後、検察側が述べた範囲で行うように」と発言した。

すると、米国弁護士の一人で広田弘毅を担当していたデビッド・スミスが突然立って発言台に進み、「通常の証人尋問に対して裁判所が『不当な干渉(undue interference)』を加えることに対し、異議を留保する」と述べた。

「不当な干渉」の語がカチンと来たか、スミスの発言が終わるなり裁判長は、「不当な干渉」という語は法廷を侮辱するとして、撤回と陳謝を求めた。が、スミスは撤回しない。裁判長は一旦休憩した後、正式に撤回し謝罪しなければ、今後審理から除外するとの裁判所の決定を申し渡した。

スミスは「私の考えを変更する意思も、理由もない」と述べ、席に戻って書類を片付け、法廷を後にした。半年経った9月5日、裁判所がスミス弁護人を法廷から永久に除外する事件が起きた。3月5日以降もスミスは、傍聴人席下の外国人記者席から審理を見守っていた。

この日、別の米人弁護士が仲介してスミスが発言台に立ち、「3月5日以来、広田被告には米人弁護士がついていない」と述べた。裁判長は3月5日の一件が「未解決である」といい、スミスは「不当な干渉は米国法廷では正規な語だ」と返して、話は平行線を辿った。

こうしてスミス弁護士は永久除外となったのだが、話はこれで終わらなかった。米国に戻ったスミスは48年11月12日に出された判決について、広田(と土肥原賢二)の絞首刑の刑法を再審する訴願を29日に米国の連邦最高裁に提出したのだ。

スミスは「裁判を支配したマッカーサー最高司令官は、合衆国の指揮命令下にいるにも関わらず、米国の立法や司法の手続きを取らずに裁判所条例を設け、新しい犯罪を規定して刑を宣告した」と米最高裁に申し立てていた。

スミスとは別に、終身刑の嶋田繁太郎、岡敬純、木戸幸一、佐藤賢了、および禁固20年の東郷茂徳についても、ブラナン弁護人が判決後、東京裁判には法的根拠がないので、刑執行に関し「人身保護令」が適用されるべきだ、との訴えを米最高裁に訴願した。

こうした中、マッカーサーは11月24日、刑の執行を命ずる声明を公表したが、12月6日に米最高裁が開かれて広田と土肥原の訴願聴取が5対4で決定し、ブラナン弁護人の訴願の申し立て聴取も12月16日に行われると決まる。マッカーサーは7日、米最高裁の処置を待つと声明した。

結局、訴願は米最高裁で却下され、その通知が12月21日に届いた。「連合国による裁判に対して米最高裁は審査権限がない」との予想された却下理由だった。処刑はこの通知から2日後になされたのであり、偶さかその12月23日が殿下の誕生日であったに過ぎない。