資料室:ポリコレは、いかに「歴史学と反差別」を弱体化させたか

一昨日の辻田真佐憲さん・安田峰俊さんとの配信は、議論が「歴史を語る際のポリコレの流行は、ある意味で欧米の中国化では?」という地点まで深まって面白かった。無料部分のYouTubeもこちらにあるので、よろしければ。

【ゲスト回】安田峰俊×與那覇潤×辻田真佐憲「実は役立つ中国史を再発見せよ 『中国ぎらいのための中国史』刊行記念」 辻田真佐憲の国威発揚ウォッチ | シラス
現代の日本人は、中国に対して親しみを感じることがほとんどなくなっている。2023年の内閣府の世論調査によれば、中国に「親しみを感じない」または「どちらかというと親しみを感じない」と答えた人々は、全体の86.7%にも及んだ。 しかし、同時に日本人は、中国の歴史や古典文化に対しては強い関心を持ち続けており、ゲームや映画など...

実は、たまたま再読中の森本あんり『反知性主義』に、こんな記述を見つけたところだった。2015年2月の本で、翌年のトランプ当選を予見したとも呼ばれる、アメリカ史の名著である。

「リバー・ランズ・スルー・イット」に、とても面白いシーンがある。幼いノーマンが「メソジストって何?」と尋ねると、父は「読み書きのできるバプテストさ」(Baptists who can read)と答えるのである。
つまり、バプテストは読み書きもできないが、メソジストはもうちょっと上で、読み書きぐらいはできる、ということである。もちろんこれは、長老派というインテリ牧師から見た話で、バプテストもメソジストも同じくらいバカにした言い方である。
実は、これは映画館で見るバージョンにしか出てこない。このシーンを確認したくてDVD版を何度も見直したのだが、確認することができなかった。しかし、わたしは映画の中のこのシーンをよく覚えている。
というのも、わたしはこれを日本の映画館で見たのだが、ここで大笑いしてしまい、しかも笑ったのは自分だけだったので、ちょっと恥ずかしい思いをしたからである。
アメリカの映画館なら、大喝采を受けるところである。アメリカ人は、こういうジョークが大好きである。自分がバカにされたそのバプテストやメソジストだと、いっそう喜んで大笑いする。
そういうところで「ポリティカル・コレクトネス」を持ち出すのは野暮である。

新潮選書、149頁
強調を附し、段落を改変

初読の際に読み落とした理由は、2017年、うつからのリハビリの中で読んだこともあるけど、当時はまだ、日本に「第2次ポリコレ・ブーム」が来ていなかったのが大きい(第1次は平成初頭)。

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もっとも疎外されたものというけれど、現実にはさまざまな位相で存在するので、最底辺ということが言えないわけです。今までは労働者とか植民地下の人間とかいっておけばよかった。現在突出してきているのは、女性、先住民、障害者といった存在ですが、しかも、それらが互いに矛盾する形で出てくるわけです。 それを無理に疎外論で押し切ろう...

『リバー・ランズ・スルー・イット』は、ブラッド・ピットの出世作として知られる1992年の映画で、今も人気がある(監督は昔「アメリカン・ニューシネマのブラピ」みたいな俳優だった、ロバート・レッドフォード)。

戦前とかならともかく、そんなごく最近(歴史家の感覚では)の作品でも、DVDを出す際に「はい、このシーン、いまはもうNGなんでカットで」と切り刻まれちゃうのは、結構ショックな話だ。

森本氏も「もちろんこれは、長老派というインテリ牧師から見た話」と補っているとおり、別に製作者が、メソジストやバプテストを差別しているわけではない。むしろ、かつては敬虔なクリスチャンの間でも、新興の宗派への差別があたりまえに行われる時代があった。

そうした時代の負の遺産を忘れないために「このお父さん、いいオヤジだったけど、いまから見るとやっぱ古いとこあったよ」という趣旨で、当時は自明視されていた偏見を、作中に書き込む。それがわかっているから、観客も見て笑う。歴史を踏まえた大人の鑑賞とは、そういうものだ。

ところが、今という時代の価値尺度を絶対視し、「これ差別発言じゃないスか! 差別するセリフが映画の中にあっていいんスか?」と騒ぐお子様な鑑賞者が増えると、それが通じなくなる。

結果として、かつて差別があったという史実はかき消され、痕跡が残らなくなってしまう。つまり検閲・削除型のポリコレは、その本質として歴史学の敵なのだが、頭が悪くてそれを理解できない「歴史学者」は多い。

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5月27日をめどに、呉座勇一さんとの新刊『教養としての文明論』が書店に並びます。Amazonでも予約の受付が始まりました! 表紙案は最終調整中につき、 多少異同あるかも タイトルの通り、ずばりコンセプトは「文明論の復権」。 中世史家と、(元)近現代史家の2人による対談形式で、以下の5冊の「文明史の名著」を読み解きながら...

もっと大事なのは、森本氏も書いているように、こうしたジョークは本来、セリフの中でネタにされている「かつての被差別者」の末裔にこそ、大きくウケる。「自分たちは迫害されてきた」という過去の受難の歴史が、きちんと社会に存在を認められ、承認されることに価値があるからだ。

しかしここでも、「うおおおおお差別の表現はカット!」みたいなお子様(たまに博士号を持っていたりする)が湧いてくると、そうした記憶の継承が難しくなる。もっとも、世の中には「製作者自身が差別してるんじゃないの?」と見られても仕方のない演出を、ナチュラルにやっちゃう例もあって、両者が悪魔合体すると最悪だ。

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先週末の呉座勇一さんとの配信では、話の枕のつもりだった「コロンブス」炎上が、目下の歴史学の問題点を考える上でも大事なトピックになった。 ぼくは普段、ネタが旬でなくなった後もたどれるようにリンクを貼るのだけど、この話題はどのサイトを選べばいいのかわかんないくらい炎上しすぎて、疲れてしまう。いちばん「批評性」を感じたNo...

判断に迷ったら、もし自分が差別された人たちの子孫だったときに、周りからどんな風に接してもらいたいかを、考えてみるとよいと思う。

たとえば、①「昔はひどい差別があったこと、知っていますよ」という人にケアされて、先人たちがそれを乗り越えて、自分はいまこの社会で生きているんだ、と感じたいだろうか。そうした歴史を踏まえたアイデンティティの持ち方を、今後とも尊重してもらいたいだろうか。

それとも、②「差別ってホントよくないですよね、だからそんな記憶や痕跡はぜんぶ消しておきました、私たちは初めから正しくてゴージャスで最高でキラキラした世界に居たんですうおおおおおDiversity!」な人に囲まれて、一切悩みのない世界のポスターとかに載ってみたいだろうか。

「負の記憶のない多様性」って、
なぜかみんな似たイメージに
なりますよね。
マルクス史観があるだけマシかな?

まぁ、どうしても②がいいっていう人を、止められるかというと難しいんだけど、しかし彼ら彼女らが勝手にフィルムを削除してしまうようでは、①の人まで困っちゃいますよね。つまり、それは正当化しえない。

なにより「負の痕跡は全削除でOK! 私たちはゴージャス!!」な自意識って、対立しているはずの「俺たちアメリカは常にグレイトだったぜうおおおおお!」とも似てるっていうか、同じなんですな(苦笑)。

2015年の『反知性主義』の時点では、まだ見えにくかったそうした構図が、誰の目にもはっきりしたのが、トランプが返り咲きを争う2024年かなと。そんな風に現在を捉えることは、いま結構大事だと思う。

姉妹編の『不寛容論』も名著です。
私の書評はこちらから

P.S.

北村紗衣 『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』 : 子供騙しな子供向けフェミニズム|年間読書人
書評:北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(書肆侃侃房) 著者が嫌いだから貶しているのではない。 本稿のサブタイトルどおり、本書『お砂糖とスパイスと爆発的な何か 不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門』(以下『お砂糖とスパイス』と略記)の中身が「子供騙しな子供向け...

近年の代表的な「ポリコレ批評」の書籍と、その批判。なかなか読ませますね。こちらもそのうち書評しようかな。


編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年9月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。