『坂の上の雲』と親ガチャ

呉座 勇一

司馬遼太郎の代表作の一つ『坂の上の雲』は2009年から2011年にかけてNHKでドラマ化された。現在、NHKで再放送中である。

NHKより

司馬の原作は、近代化の道を突き進み、ついに日露戦争に勝利する明治日本の歩みを、旧伊予国(愛媛県)松山出身の秋山好古・真之兄弟および正岡子規の大志と立身出世を通じて描いた長編歴史小説である。いわば近代日本の青春期を、この時代の若者の青春群像と重ねた作品で、現在に至るまで読み継がれている。政治家や経営者が好きな歴史小説として挙げる筆頭でもある。

実のところ、歴史学界においては同作への評価は芳しいものではない。日露戦争を祖国防衛戦争として正当化し、朝鮮半島などへの侵略的性格を隠蔽している、といった批判の声が強い。だが、司馬が明治日本の明るさをすくい上げたことは否定できない。影の部分を捨象した一面的叙述という非難は成り立つだろうが、司馬が明治日本の光を捏造したわけではない。司馬が描いた明るさは一面の真理なのである。

では明治日本の明るさとは何か。議会が成立し、不十分ながらも国民が政治参加できるようになったことだろうか。それとも、一定の言論の自由が保障されたことだろうか。そうではなく、司馬が同作などで語っているように、本人の努力次第でのし上がって行けるチャンスの大きさこそがその本質であろう。

坂本龍馬が慶応3年(1867年)6月に起草したとされる新政府設立のための政治綱領「新政府綱領八策」の第一条は、「天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ」である。江戸時代の社会は厳しい身分制度の上に成り立っていたから、「天下有名ノ人材を招致シ」という言葉には、身分にとらわれず優秀な人材を集めるという含意がある。龍馬は、身分制の解体、努力が報われる社会の実現こそが新時代に求められる最重要の課題と考えていたのである。

上に見た龍馬の考えは、龍馬死後に成立した新政府において実際に採り入れられる。旧幕府軍と戦っている最中の明治元年(1868年)3月14日、新政府は統治の基本方針である「五箇条の御誓文」を公布した。明治維新の高邁な政治理念を示すことで、幕府から新政府への政権交代に対する人々の支持を集めようとしたのである。

五箇条の御誓文の第一条「広く会議を興し、万機公論に決すべし」は立憲政治、議会政治を導いた理念として有名だが、本稿では第四条「官武一途庶民に至る迄、各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」に注目したい。実はこの原案を作った福井藩出身の由利公正の当初の案では、「庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す」が第一条に来ていたのである。

由利は明治41年7月に発表した「英雄観」で「『庶民をして各志を遂げ人心をして倦まざらしむべし』とは、治国の要道であって、古今東西の善政は悉く皆この一言に帰着するのである。看よ立憲政じゃというても、或は名君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである」と振り返っている(『由利公正伝』)。

どんな身分の家に生まれても本人の努力次第でいくらでも立身出世、成功できる社会を作ることが良い政治の第一条件であると由利は言っている。国家の活力を生むのは立憲政治ではなく、実力主義であるという政治理念がうかがわれる。

百姓の家に生まれ、足軽の家に入り、初代内閣総理大臣となった伊藤博文は、百姓から天下人になった豊臣秀吉と比較され、「今太閤」と呼ばれた(良く知られているように、戦後には田中角栄がこう呼ばれた)。自分の才能だけで立身出世を遂げた伊藤は、身分制を解体した近代日本の申し子である。努力すれば、どこまででも上に行けるという希望こそが近代日本の発展の原動力だった。

ところが、数年前から社会問題として「親ガチャ」という現象にフォーカスするネット記事やニュース番組が増えた。SNS上で賛否両論の議論が巻き起こることもしばしばだ。

「親ガチャ」とは、ネット俗語で「親を自分で選べないこと」を意味する。出生でどの親に当たるのかを、ガチャ(カプセル玩具自販機でレバーを回転させること。どの玩具が出るかは運次第である。転じてソーシャルゲームでキャラ・カードを獲得するためのくじ引きのこともいう)に見立てている。要するに、どのような家に生まれたかという運で人生は決まってしまい、努力しても無駄である、という絶望を表した言葉なのだ。

「自分の不遇を親のせいにするのは甘えだ」、という批判は当然あろう。しかし「親ガチャ」なる言葉が流行した背景に、日本社会の閉塞感があることは確実だ。「親ガチャ」という表現の当否はさておき、社会全体を覆う「あきらめ」の雰囲気、無力感は軽視できない。

人生が親で決まらない社会をつくることが明治日本の目標であり、それはある程度達成されたと言える。過度な競争主義によって格差が拡大したという負の側面はあるが、江戸時代と比べて風通しの良い開かれた社会になったことは間違いない。

逆に言えば、「親ガチャ」という言葉が蔓延する現代日本は、まるで江戸時代に戻ったかのようである。日本人が明治以降に目指してきた“良い国”の理想像は既に崩壊し、若者の個々の努力によって報われる社会ではなくなってきているのだ。

「親ガチャ」という表現は冗談めかしているが、その背後にある若者の絶望は根深い。軽視してはならない問題であろう。これから行われる衆議院選挙では、若者が希望を持てる社会の実現に向けて、各党が議論を戦わせることを願っている。