古代史サイエンス②:水田稲作は本当に“渡来人”が伝えたのか? --- 金澤 正由樹

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前回の記事「7000年前の朝鮮半島古代人は縄文人なのか?」では、約7300年前に鬼界カルデラの破局的大噴火という未曾有の大災害が発生し、降り積もった分厚い火山灰で南部九州は壊滅、辛うじて生き延びた九州の縄文人は海を渡り、当時無人だった朝鮮半島に上陸して定住した…という大胆な仮説を提示しました。

言い換えれば、朝鮮半島古代人は縄文人であり、仮に“渡来人”が日本に来ていたとしても、これらの人々は縄文人の末裔ということになります。

意外に思う人も多いでしょうが、以上は単なる推測ではなく、考古学的な考察やゲノム解析の結果とも整合性が高いことは、既に説明したとおりです。

水田稲作は本当に“渡来人”が伝えたのか

こうなると、水田稲作は本当に“渡来人”が伝えたのかも疑わしくなってきます。

日本最古となる紀元前10世紀の水田跡が発見された菜畑遺跡は、縄文時代前期から弥生中期ぐらいまで続いた遺跡で、実は「縄文土器」も出土しています。

ごく初期の水田跡を見ると、現代のように苗を使う「田植え」ではなく、種籾を直接水田に播く「直播き」らしく、規模も非常に小さい。

このことは、当時の縄文人が「見よう見まね」で稲作を始め、少しずつ稲作を日本向けに改良していった、ということを示唆しています。もし、“渡来人”が中心なら、こんな面倒なことなどせずに、一気に大規模な水田を開発したはずですから…。

その後、水田稲作技術は250年ほど北部九州を出ることはなく、約700年という超スローペースで日本列島を東進し、2400年ほど前に、やっと東北地方と関東地方まで到達しました。

農業は工業製品とは違うため、農作業、人的体制、水路などは、現地の気候風土向けにローカライズすることが必要です。だから、普及にこれだけの期間が必要だったのだと考えられます。

では、同時期の朝鮮半島の状況はどうだったのでしょうか。

半島最古の水田稲作跡は、蔚山市にあるオクキョン遺跡で発見され、開始年代は紀元前11世紀(紀元前1000年頃)とされます。日本最古の菜畑遺跡の紀元前10世紀(紀元前930年頃)よりは古いものの、前者の年代測定は発掘された土器の地層、後者は放射性炭素によるものですので、数字の直接的な比較は難しそうです。

イネのゲノム解析の結果

従来の定説「二重構造説」によれば、朝鮮半島の渡来人は、水田稲作などの先進技術を携えて日本列島に到来したとされています。しかし、“渡来人”が縄文人の末裔だとするなら、これらの人々は日本に「里帰り」した縄文人ということになり、これなら大いにありそうな話でしょう。

しかし、イネのゲノム解析を行った結果では、中国大陸から渡来した水田稲作は、海上ルートで直接日本に伝わり、その後に日本から朝鮮半島に伝わったと考えた方が自然となります。

このことは、在来種のイネのゲノム解析を行った佐藤洋一郎氏が述べています。

佐藤氏によれば、従来種のイネのゲノム(DNA中のRM1)を調査したところ、

  • 中国大陸(原産地):a~hの8種類
  • 日本:aとbが主流(cは例外的)
  • 朝鮮半島:bを除く7種類

という結果になりました(図3)。bは朝鮮半島には見られないため、これが「bでは従来の朝鮮半島経由は否定される」という理由です。

図3 日本の在来種のイネの遺伝子(赤丸を追記)

また、この後の佐藤氏は、水田稲作は黄河あたりが北限で、朝鮮半島北部や中国大陸北部では極めて困難なため、朝鮮半島経由で伝来した可能性を否定しています。

実は、もう一度よく図3を眺めてみと、かなり奇妙な事実に気が付かされます。なにしろ、中国の在来種ではbが圧倒的多数派。もし、aが中国大陸→朝鮮半島→日本と伝わったとするなら、大陸で多数派のbが朝鮮半島にまったく伝わらないのは極めて不自然です。

逆に、海上ルートによりa(図3の赤丸)が中国大陸→日本→朝鮮半島と到来したとするなら、対馬も北部九州もa(同)なので、DNAでも合理的に説明可能となります。

ちなみに、この同じルートでは、朝鮮半島最古の土器とされる「隆起文式土器」が発見されており、古来から海上輸送によく使われていたと考えることもできます。

水田稲作の伝来が朝鮮半島と考えにくい理由

このほかにも、水田稲作の伝来が朝鮮半島と考えにくい理由はいくつかあります。

【理由1】

アルコール分解酵素ALDH2の変異を持つ人間の割合は、水田稲作が盛んな地域ほど多くなるとされる。たとえば、米作中心の中国南部では45.7%で、麦作中心の中国北部(北京)の28.2%より変異を持つ人が多い。しかし、韓国人(蔚山)ではこの変異を持つ人は27.5%で日本人(東京)の44.3%より少ない。もし、昔から朝鮮半島が日本より米作が盛んだったなら、この変異は日本人より多いはず(拙著)。

【理由2】

もし、水田稲作の伝来が中国大陸→朝鮮半島なら、最古の水田稲作跡が大陸より日本に近いオクキョン遺跡(蔚山)なのはかなり不自然。なお、この付近では縄文土器や弥式土器も発見されている。

【理由3】

水田稲作に伴って出現する環濠集落も、朝鮮半島で発見された数は日本の10分の1程度と極めて少なく、規模もはるかに小さい。しかも、半島で発見されたものは、なぜか日本に近い南岸に集中している(図4の赤枠内)。もし、水田稲作が中国大陸から伝わったとするなら、日本に近いほど数が多くなることは説明が困難。また、朝鮮半島南岸からは、大量の弥生土器も発見されている。

図5 日韓の環濠集落の比較(図4の論文から作成)

以上のことから推測すると、水田稲作の到来は、

  1. 海上ルートによりaが中国大陸→日本→朝鮮半島と伝わった
  2. 同様に、海上ルートによりbが中国大陸→日本と伝わったが、朝鮮半島には伝わらなかった
  3. 日本では原産地の中国大陸よりDNAの種類が少ないことから、一部の地域から少量の籾が持ち込まれた
  4. “渡来人”の果たした役割はほとんどないか、あったとしても相当に限定的

と考えるのが最も自然ということになります。

今後とも、専門家による更なる研究が待たれるところです。

金澤 正由樹(かなざわ まさゆき)
1960年代関東地方生まれ。山本七平氏の熱心な読者。社会人になってから、井沢元彦氏の著作に出会い、日本史に興味を持つ。以後、国内と海外の情報を収集し、ゲノム解析や天文学などの知識を生かして、独自の視点で古代史を研究。コンピューターサイエンス専攻。数学教員免許、英検1級、TOEIC900点のホルダー。

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