シリアのアサド(前)大統領がロシアに逃亡し、HTS(ハヤト・タハリール・シャム)が首都ダマスカスを制圧し、HTSの最高指導者であるジャウラニ氏が実権を握る体制が作られた。ただシリア国内の状況は、依然として不透明だ。
日本のSNSでは、〇〇はアサド信奉者だ、〇〇もアサドを完全否定すると宣言していないように見えるので怪しい、といった類の言説が流行している。
アサド政権の苛烈な抑圧は広く知られており、よほどのことがないとその蛮行を擁護する人物などはいない。しかし、それだけに「実は〇〇はアサドを擁護している!」と犬笛を吹かれると、大変である。アサド政権の後ろ盾がロシアであり、ロシアのシリアにおける苛烈な空爆も多大な惨禍をもたらしたことは疑いのない事実であるため、ロシア・ウクライナ戦争の文脈で行われている「隠れ親露派狩り」が、そのままシリアを題材にして繰り返されている流れも見てとれる。
ただ、アサド政権の蛮行は、シリアの政治体制が置かれている状況から生まれたことだ。ある特定の人物の性格だけによって生まれたこととも言えない。問題は長期に渡って続いていく。その点は、見失わないようにしておきたい。
バッシャール・アル=アサド氏は、独裁者の次男として生まれたが、世継ぎは長男と決まっていたので、イギリスで眼科医として暮らしていた。当時の同僚は、真面目で平凡な眼科医であったと証言している。転機は、長男バースィル氏が突然の事故で急逝したことだった。独裁者の父親の跡継ぎに指名され、急遽シリアに戻ったのが、1994年のことだ。バッシャール氏は、当時28歳であった。
私がロンドンで博士課程の学生をしている時期と、バッシャール・アル=アサド氏がロンドンで平凡な眼科医として勤務していた時代は重なっている。私は、バッシャール氏のニュースをロンドンで見たときのことをよく覚えている。バッシャール氏は、私の3歳年上で年齢が近い。そのため、彼がロンドンに少し先に留学に来ていて、そのままイギリスに残ってしまった、という経歴を持つ人物であったことが、印象に残った。そのような平凡ながら眼科医としての資格をイギリスで獲得した人物が、独裁者の息子であるという理由で本国に呼び戻されるという話に、なんとも言えない気持ちを覚えた。
私は最初にロンドンに来た時に学生寮に住んでいたが、生活費を節約するため相部屋にいた。その部屋のパートナーは、工学でインペリアル・カレッジ(理系ではケンブリッジとイギリスでトップを争う大学)の博士号を取得したイラク人だった。彼は学位を取得してもなお、周囲の助言もあり、研究生の地位などをつないでロンドンに居残り続けていた。当時、イラクのクウェート侵攻・湾岸戦争から、3年が経つ時期であった。イラクには、いつ解除されるかもわからない安全保障理事会の強制措置の権限を伴う苛烈な制裁が科せられ続けていた(当時の対イラク制裁は、あまりにも深刻な人道的な惨禍をイラクの一般国民に招きすぎたという理由で、今日では制裁の失敗例の一つとしてあげられるのが普通である)。
しかし彼はイラク政府の奨学金で送り込まれた人物である。政府中枢のプロジェクトに貢献しなければならない。サダム・フセイン政権が、彼のイギリスへの亡命などを許すはずはなかった。彼本人も、イギリスに残り続けることができたらそれに越したことはないが、そんなことはできない、と呟いていた。何度もイラク政府から通知を受け、遂に脅迫めいた最後通牒を受けるに至り、決意を定めてイラクに帰国した。その後、私は彼とは連絡がとれなくなっている。
当時の私の頭の中では、バッシャール氏緊急帰国のニュースは、このイラク人のルームメイトの姿を思い出させるものがあった。シリアの独裁者の跡継ぎがロンドンで眼科医をしていた!というニュースは、当時のイギリスで大きく報道された。その当時のバッシャール氏の姿は、20代のロンドン生活に満足していた普通の青年のものであるように見えた。バッシャール氏は温和な性格である、とシリアでもイギリスでも報道されていた。独裁者の器ではない、という話だった。
だがそこで人々が参照したのが映画『ゴッド・ファーザー』だ。穏健で知的な次男が、気性が荒い長男の死に直面して、マフィアの首領である父の跡継ぎになっていくストーリーだ。果たしてバッシャール氏も、『ゴッド・ファーザー』で次男役を演じたアル・パチーノのように、やがて独裁者として豹変していくのか、という視点が、話題であった。
その後、2000年に35歳で大統領に就任したバッシャール氏は、映画を凌駕して、世界有数の苛烈な独裁者となっていく。特に2011年の「アラブの春」に伴う騒乱が、凄惨な戦争へと転換していく過程において、彼の配下で動いたシリア軍・警察などによって殺害された人々の数は、何十万人なのかわからない。シリア政府機関がさらに悪名高いのは、少しでも反政府的な態度を示す者がいれば、瞬く間に拘束して、苛烈な拷問を繰り返すことだ。その犠牲になった方々に対して持つ罪の重さは、計り知れないものである。
私は、シリア人の大学院生を何人か指導したことがある。日本の大学に来るのは日本政府の国策でレバノンやトルコの難民から選抜された者である。彼らにとって「アサド」と言えば、筆舌に尽くしがたい蛮行そのもののことであり、激しい憎悪の対象である。世間で「アサド派」として知られている私の大学の同僚教授にも、絶対に近づかない。
ただ私は、ダマスカス大学を出て留学してきた女性を指導したこともある。彼女も、アサド政権を擁護したりはしない。しかし家族がダマスカスに暮らしている。行動や言動は、自ずと難民の留学生とは少し異なる。
国連機関のシリア事務所で勤務していた経験を持つ知り合いも複数いる。日本政府が、「モスクワ派」「イスタンブール派」などの各勢力の人々を数人ずつ選んだうえで日本に連れてくる「研修」の講師を務めたこともある。
そうした経験をへて、いま改めて思うのは、シリアの特異な政治システムは、バッシャール氏の父であるハーフィズ・アル=アサド氏の時代に作られた「バアス党」独裁のシステムである、ということだ。
ハーフィズ氏も、軍人であったが、バアス党の穏健派と目されるグループのリーダーであった。その彼は、バアス党の権力闘争を勝ち抜いているうちに、自らに権力を集中させる術を発揮し、世界有数の独裁システムを作り上げた人物であった。
私は、アサド親子を信奉していないし、彼らの蛮行を擁護する気持ちも微塵もない。ただ、同時に、アサド親子を徹底的に悪魔化し、全てはアサド親子という悪魔がやったことである、といったかのように考える姿勢に、いわば「悪魔の蛮行」理論を振りかざすような風潮に、疑問を持っていることも確かである。シリアの独裁システムは、単に悪魔が現れて蛮行を繰り返した、ということだけでは説明できない鋼のような強さを持っていた。
今回の政変で、アサド王朝は終焉した。しかしアサド独裁システムが終焉したかどうかは、わからない。HTSと戦わずして「権力の平和移行」を唱えている旧政権の高官の中には、蛮行をより直接的に指揮していた者も含まれている。なんといっても独裁体制が長期にわたって続きすぎた。他の政治文化が開花しうるかは、わからない。
「HTSはアルカイダかどうか」をめぐって日本のSNSで罵倒の言葉が飛び交っているが、すでに書いたことだが、この問いを文字通り受け止めることには、あまり意味がない。
「HTSはアルカイダのような組織文化を持っているか」、という問いも、ほとんど比喩である。「HTSはシリアの政治文化を刷新するような組織文化を持っているか」、という問いが、本質であろう。
加えて、実は、HTSはダマスカスを制圧したとはいえ、シリア領土の半分も支配していない。反アサド政権では共闘したが、よりトルコに近いSNAとは一枚岩ではない。クルド系のSDFは国土の3分の1以上を支配しているようであり、これを嫌うSNAと武力衝突を起こしている。
さらにトルコ、アメリカ、イスラエルが、アサド政権崩壊後も、シリア各地で空爆を繰り返している。イスラエルはゴラン高原に侵攻を始めたが、アメリカはもともと自国の基地周辺を占領地のように囲っている。トルコも国境付近のシリア北部で特別な影響力を行使できる立場にある。ロシアが軍事基地を放棄するかも未定だ。
アサドは悪魔、悪魔が全ての現況、したがって悪魔を追放すれば問題は解決する、あとは同じように唱えない者も悪魔の仲間として追放するだけ、といった話で、全てを解決できるような単純な状況ではない。
シリア情勢は複雑だ。複雑すぎると世間に注目してもらえない、というのも、その通りだろう。しかし、だからといって、いたずらに話を単純化させることが、いつも正しいとは限らない。
私が知るシリア人は皆、穏健で知的な方々ばかりだ。だが皆、心の中に何か悲しみと、不安を抱えている。彼らが、ゆっくりと、時間をかけて、その特性を生かした能力を発揮していく環境が整い始めるまで、性急な結論を出すことはできない。
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「篠田英朗国際情勢分析チャンネル」(ニコニコチャンネルプラス)で、月2回の頻度で、国際情勢の分析を行っています。