社内では異論を封じる
98歳で死去した読売新聞主筆の渡辺恒雄さんは、マキャベリの君主論を愛読していたということを第一回目で書きました。君主論の「君主は愛されるより恐れられるほうがよい」の箇所を、社内にいる記者たちは何度も聞かされました。私も主筆に怒鳴りつけられた経験が何度かあります。
中曽根氏が固執した大型間接税(売上税)の導入構想(82年)が持ち上がって、大蔵省(現財務省)の主税局長を講師に招いて勉強会が開かれました。ナベツネさんはもちろん、政治、経済部などから記者が参加しました。ナベツネさんは「独裁者」でありながら、憲法問題にせよ、税制の問題にせよ、多くの場合、この種の勉強会を招集し、専門家の意見を聞いて結論を出すというプロセスを踏みました。
「独裁者」であっても、「独断」で方針を決めるとういうことはなく、勉強会(研究会)で専門家の意見を聞いたうえで、方針を決めていました。私は経済部記者で、大蔵省も担当していましたから、この間接税の勉強会に参加しました。主税局長の説明が終わり、質疑に移りました。間接税は税収が景気動向によってあまり左右されない安定財源である、欧州では導入されていないのに日本は小型の物品税しかない、大型の間接税を入れる時期にきたというような主旨だったと思います。
私は局長に「公費天国という批判もある中で、新税を導入するというのはどうか。歳出を合理化、無駄使いをなくした上で、税の増収を図るというのが筋ではないか」と質問しました。するとナベツネさんの怒号のような声が聞こえてきました。大型間接税は、主筆の盟友である中曽根氏と熟議していたようです。それに異をとなることは、許さないということだったのでしょう。
当時、公費天国とか、官官接待とかの問題、不祥事があり、特に朝日新聞は追及のキャンペーンを張っていたように思います。大型間接税、売上税導入のハードルが高ったのです。
主筆の怒号のような言葉は覚えています。確か「貴様は、さいみんをせんしょう、するのか」だったと思います。聞きなれない用語です。共産党の用語のようでもありました。主筆は学生時代に共産党員だったこともあり、そういう言葉を使ったのでしょう。私は一瞬、何を言われた分かりませんでした。意味が分からなくても、怒りを買ったことは間違いないと思いました。
会合の終了後、辞書を引きながら、「さいみん」「せんしょう」の意味をさぐりました。「さいみん」は「細民」(下層階級の人々、貧しい人々)、「せんしょう」は「僭称」(勝手に身分を名乗る)か「賤称」かでしょうか。要するに、「君は貧乏人のふりをして、増税に反対するのか」の意味だったのでしょう。隣席にいた経済部長は私を擁護しようとして「いやあ」とか、言葉を発しました。その後の言葉が続きませんでした。大型間接税(消費税)が導入されたのは、かなり後の竹下内閣の時(1988年)でした。
罵倒されたのは、中央公論新社に出向した直後にもありました。中央公論の編集者は読売の傘下に入ることによって、編集方針が保守化するのではないかと警戒していました。月刊「中央公論」の編集者にはそれが強かったように思います。ある号で、護憲派の学者が憲法改正を警戒するような論文を書きました。意図してタイミングを図ったのでしょう。出向したばかりの私は経営再建の注力していましたので、月刊誌のゲラ刷りの段階から、原稿をチェックするような余裕はありませんでした。
主筆は憲法改正論者でしたから、この論文がひどく気に障ったのでしょう。ある時、「なんだこの論文は。こんなのを掲載するなら中央公論なんかいらん。潰してもいいぞ」と、どなられました。中央公論新社の経営再建は順調にいき、2年ほどすると、黒字転換できました。中公を傘下に入れる一方で、本社の出版局は解体し、論壇誌の月刊「this is 読売」を休刊にしました。この選択が誤っていなかったことについては、相当に喜んでいたはずです。
編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2024年12月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。