韓国人の自由主義者から見た「韓国保守主義の特徴と歴史」

自由主義研究所
要点まとめ

韓国の保守主義は、伝統的価値観との断絶を経て「親米反共」と「経済発展」を基盤に形成されました。特に、冷戦や朝鮮戦争などの外的要因がその形を決定づけ、結果として理念的な多様性に乏しい特徴を持ちます。現代では、権威主義的体制や親企業主義が目立ち、改革が求められていますが、根本的な転換には至っていません。

こんにちは。自由主義研究所の藤丸です。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年初めの記事は、日本の大学で政治を学んでいる、韓国人の自由主義者の友人からの寄稿記事になります。

日本の保守派には様々な分類や歴史がありますが、韓国の「保守派」はどうなのでしょうか?日本の保守派とはどのように違うのでしょうか?韓国では「保守主義」はどのような位置づけなのでしょうか?

韓国人の自由主義者の視点から、韓国の政治の歴史とともに「保守主義」を分析した貴重な記事です。ぜひ御覧ください。

韓国の保守派について、皆さんはどの程度ご存じでしょうか?日本人の中には、韓国の保守派は「共に民主党」と比べて「マトモ」であると考える方もいるでしょう。しかし、その「保守派」がどのような背景や特徴を持つのか、詳しく知っている方は少ないのではないでしょうか。

今回は自由主義の観点から韓国の保守派を理解し、そのあり方を再考するためにこの記事を作成しました。

韓国保守主義の基本理念

韓国保守主義の主な理念は、「親米反共」と「成長主義」に集約されます。この背景には、建国直後から冷戦構造に組み込まれ、朝鮮戦争を経験したことが大きく影響しています。

ただし、韓国保守主義は、欧米の哲学的保守主義が重視する「急激な変化への反対と漸進的変化の追求」とは大きく異なります。「伝統と近代が断絶された保守主義」と表現する方が適切でしょう。

その理由は、第二次世界大戦の終結と韓国の独立にあります。独立後、韓国において李氏朝鮮や日本統治時代は「清算すべき悪習」と見なされ、継承すべき伝統とはされませんでした。さらに、朝鮮戦争と冷戦を経る中で、韓国の保守派にとっては思想的発展よりも「反共」と「経済発展」、すなわち生活基盤の確立が優先事項でした。

韓国保守主義における「伝統」の位置づけ

韓国の伝統を語る上で、儒教が最も重要な要素として挙げられます。しかし、アメリカのキリスト教右派や日本の宗教右派と異なり、韓国における儒教は政治的勢力としては大きな影響力を持っていません。むしろ、伝統的ではないキリスト教右派が影響力を持っています。

もちろん、儒教的伝統は民間で残存し、一部は軍事政権によって取捨選択されたこともあります。しかしフランス革命以降のフランスや、ワイマル共和国で復古運動(ブルボン王朝及びドイツ帝国)が行われていたとは異なり、韓国では「王政復古運動」が一度も起こらなかった点が特徴的です。

また、朝鮮時代の貴族階級「両班」(ヤンバン)は、現代韓国では皮肉を込めて使われる言葉となっています。両班は、儒教的倫理を掲げながらも、実際には農民からの苛烈な収奪を行い、社会の不平等を固定化しました。同時に朝鮮の統治理念だった儒教は、非常に硬直した思想であるため、近代化にうまく対応できなかった点が大きいです。

日本統治時代の開始と朝鮮王朝の滅亡を経て、身分制度は廃止され、国王と両班を基盤とする儒教的支配体制は政治的影響力を喪失し、保守派のイデオロギーとして「時代遅れ」だという印象を国民に与える結果となったと言えます。

これにより、韓国の保守派は「伝統と断絶された保守主義」となりました。

結論

伝統が断絶されて何も残っていない状況だったため、韓国の保守派は新しい価値観や制度を積極的に受け入れ、それを破壊し再構築することで、保守主義を確立してきました。この点では進歩的とも言えるものの、他国では理念的資源となり得た「伝統」を失ったことで、結果的に理念的な貧困に陥ることとなりました。

ここまでの簡単な説明で、韓国保守主義の特徴についてある程度ご理解いただけたでしょうか。次は、こうした特徴を踏まえ、韓国保守主義の歴史を具体的に振り返ります。

歴史

1. 旧韓末における保守派の誕生

旧韓末とは、日本の明治時代とほぼ一致する時代であり、西洋の文物が数多く流入し、朝鮮がロシア、清、日本の圧力の中で近代化を迫られた時代です。このような背景の中、韓国初の保守派として登場した団体について説明します。

1895年の日清戦争で敗北した清は、下関条約で朝鮮の独立を承認しました。この状況を受け、1896年に徐載弼(ソ・ジェピル)、李承晩(イ・スンマン)、李完用(イ・ワンヨン)らが立ち上げたのが独立協会です。独立協会は朝鮮に立憲君主制を導入し、自由民権運動を推進しようとした、韓国初の古典的自由主義政党でした。

高宗

一方で、当時の国王・高宗は独立協会の活動を警戒し、商人たちを巻き込んで、御用団体である「皇国協会」を設立しました。この皇国協会こそが、韓国初の保守派団体といえる存在です。

皇国協会は王党主義、重商主義、保護貿易を掲げた伝統保守主義(Classical Conservatism、古典的自由主義と対立していた)政党であり、日本でも知られる金玉均(キム・オッキュン)を暗殺した洪鍾宇(ホン・ジョンウ)もこの団体に所属していました。

しかし、1907年の大韓帝国建国後、高宗は独立協会を解散させ、皇国協会も役割を終えて消滅しました。このように、保守主義運動は短命に終わり、十分に展開されることなく幕を閉じることです。

2. 日韓併合後の空白と独立運動

1910年の日韓併合以降、韓国で保守主義運動と呼べる動きはほとんど見られなくなります。

しかし、時代が進み、1945年の日本の敗戦による独立後、韓国保守主義史における重要な二人の人物が登場します。それが李承晩(イ・スンマン)金九(キム・グ)です。

3. 李承晩と金九の対立

李承晩と金九

李承晩は、かつて立憲君主制を唱えたため高宗に逮捕された経験を持つ独立運動家であり、例の独立協会を立ち上げました。

一方、金九は李奉昌による昭和天皇暗殺未遂事件(桜田門事件)の背後にいた独立運動家です。

両者はともに朝鮮の独立を目指しましたが、その手段は異なりました。

  • 李承晩:外交による独立を主張
  • 金九:テロや武力を伴う独立を主張

独立後も両者の対立は続き、李承晩は南側のみの単独政府樹立を目指し、金九は朝鮮民族による統一政府の設立を目指しました。

この対立は、冷戦の進行とともに韓国保守派を大きく分岐させることになります。

4. 反共主義保守の勝利

韓国の保守派はここで重大な選択を迫られました。

  • 李承晩の反共主義:アメリカと連携し、共産主義と戦う路線
  • 金九の民族主義:朝鮮民族の統一を優先する路線

結果として、冷戦構造が李承晩を支持する形となりました。北朝鮮の金日成(キム・イルソン)は統一協議で南側に不利な条件を提示し、金九の統一運動は失敗。1948年、李承晩が初代大統領に就任し、翌年金九が暗殺されたことで、韓国保守派において民族主義は衰退しました。

ここで注目すべき点は、他国の保守派が民族主義(ナショナリズム)を重要な柱としているのに対し、韓国では逆の傾向が見られることです。

韓国の民族主義は、リベラル政党の共に民主党や、それより左派の「従北主義者」によって主張されることが多く、保守派はむしろグローバリズム的な姿勢を取っています。代表的に、例の金九は極右に近いにもかかわらず、革新派に評価され、保守派には「共産主義者」と非難されることもあります。

これは韓国が分断国家である特殊な状況による保守派の性質に起因していると考えられます。

ただし、ここで言う金九の民族主義はethnic(民族的)民族主義であり、後述する朴正煕(パク・チョンヒ)大統領のstate(国家的)民族主義とは異なる点に留意してください。

また、李範奭(イ・ボムソク)総理が提唱した「一民主義」もありますが、保守主義というよりファシズムの亜種に近いので、本記事では詳述を割愛します。

5. 朝鮮戦争と保守主義の確立

1950年に勃発した朝鮮戦争は、韓国保守派のイデオロギーを決定づける重要な契機となりました。戦争による甚大な被害と共産主義への憎悪が、韓国保守派を「親米反共」と「経済成長」政策に収束させ、現在に至る保守主義の基盤を形成しました。

6. 自由党政権

3.15不正選挙での自由党と民主党のポスター

1955年、朝鮮戦争後の混乱が続く中、李承晩(イ・スンマン)政権の自由党は長期政権維持のため「四捨五入改憲」を実施しました。この改憲に反対した勢力が集まり、「民主党」を結党します。

この民主党は、現在の「共に民主党」の前身とされています。ただし、当時の民主党もまた保守系政党に分類されていました。中心となったのは地主と資本家、そして自由党からの反李承晩勢力であり、彼らもまた徹底した反共主義を掲げていました。

地主と資本家が李承晩に反対した原因と言えば、李承晩が農地改革を行ったことにあります。李承晩は地主層と政治的な見解の相違を見せ、そのため農林部長官に左翼系の人物を任命し、農地改革を実行したことで、地主層の反発を招きました。

農地改革の内容としては、地主から農地を没収し、耕作民に分配する典型的な社会主義政策でした。後述する、李承晩を自由主義者だと主張する保守派がいますが、李承晩は決して自由主義者ではありません。ただの独裁者です。

いずれにせよ、現代のリベラル政党とされる「共に民主党」の源流は保守系にあったのです。そうした中で、民主党は後述する1990年の「三党合党」により孤立し始め、1996年金大中(キム・デジュン)が民主化運動家や革新系の人物を大々的に登用したことで、リベラル政党へと変化し始めます。

こうした李承晩政権は、1960年の大統領選挙で彼を死ぬまで執権させるための不正選挙を企て、これが「4.19革命」の引き金となり、李承晩は最終的にハワイへ亡命します。

その後、民主党は改憲を行い第二共和国の与党となりますが、政情は混乱し、学生たちのデモが続く中、韓国近代史を覆す一人の軍人が登場します。

7. 朴正煕政権

5.16軍事クーデターでの朴正煕少将

1961年、「5.16軍事クーデター」で政権を掌握した朴正煕(パク・チョンヒ)は、現代韓国保守主義に大きな影響を与えた人物です。

その思想は一言で、「国家主義、権威主義的保守主義」です。彼の思想をよくあらわしてくれる代表的な演説は次のようです:

一言で、政治の目的と制度の真の価値は、その国の当面の課題を効率的に解決し、遠大な国家目標を着実に実現していくために、国民の知恵と力量を一つに集め、生産的な力を最大限に発揮できるように、後押しすることにあると私は信じています。いかなる名分と理由であれ、(中略)国民の和合と社会の安定を阻害し、国論の分裂と国力の浪費を助長するそのような形の政治のやり方は、私たちが直面している厳しい現実が到底それを許さないはずです。

1978年、陸軍士官学校卒業式にて

朴正煕大統領の国家主義に影響を及ぼしたのは満州国でした。

経済開発5カ年計画などの計画経済、輸出主導、農村振興、重化学工業育成など戦後の日本と韓国の圧縮的政治·官僚主導成長戦略と、韓国のセマウル運動、国旗に対する誓い、愛国照会、軍事教育、忠孝教育、国民教育憲章、退廃風潮の取り締まり、町内会、高度国防体制のための総力安保体制など、朴正煕大統領の政策は、全て満州国の国家社会主義と非常に似ています。

満洲国将校だった朴正煕は、二二六事件の国粋主義者をも評価していたと言います。

実際、満州国官僚出身の岸信介総理と朴大統領は親交が深かったと言い、岸総理が国民皆保険を作ったように、韓国の医療保険が法律として成立され、実施された(一部のみ、1989年から全国民対象)のは朴正煕時代でした。

10月維新を公布する金鐘泌(キムジョンピル)総理

はっきり言って、韓国は朴正煕の国家資本主義の下で建てられた国ですね。

朴正煕の近代化保守主義は、国家主導の、上からの経済開発を進め、国家介入を正当化しました。 過去からの過ちが招いた現代の試練を克服するための急進的な変化(近代化)を目指していたことから、エドマンド・バークの保守主義とは異なります。

同時に、この未来は民族主義と結合し、民族復興、檀君(ダンクン、韓国の神武天皇のような人)、高句麗(コウクリ、韓国史上最大の領土を持っていた国)、新羅(シンラ、三国を統一した国)の花郎(ファラン、新羅の青少年修養団体)精神、世宗(セジョン、朝鮮の国王)のハングルなどの修辞的表現を使用し、進歩でありながら復古主義的でした。

朴正煕の民族主義は金九の民族主義とは違って、国家主義かつ権威主義的体制の保持のためのものだったのです。

問題は、朴正煕大統領も、たまたま「民族の自由」「共産主義からの自由」を語っていたということです。

しかし彼の論ずる自由とは、個人は所属している集団が外部から独立されている集団的自由(自主独立)に恵まれている時こそ、初めて個人の自由が享受できるということでした。実は、ナチス党歌の「ホルスト・ヴェッセルの歌」でも、自由という歌詞がありますね。

彼らにとって集団の自由を脅威する個人の自由は、排除されるべきだったはずです。

現代韓国の保守派や自称自由主義者たちが語る「朴正煕式自由」は、共産主義からの自由に限定されており、経済的自由や政治・社会的自由には及びません。この点で、韓国の保守派は表向きアメリカの保守派を模倣しながら、裏では日本の保守派と似通っていると言えるでしょう。

例えば、韓国の某ハイエク研究者は、「朴正煕の経済発展は国家主導的だったが、そのおかげで私たちの生計を立てる自由が生じた」という、とんでもない話を言ったことがあります。しっかりした自由主義者なら、決してこんな出鱈目は言えません。

朴正煕が急進的な近代化を追求した結果、伝統的価値観や個人の自由が軽視され、多くの社会問題が生じました。彼の国家主義と権威主義は現代韓国の保守派に受け継がれ、韓国の経済的自由や政治・社会的自由を制限し続けています。この点で、彼の思想はアルゼンチンのペロン主義とも似ています。

結論として、朴正煕から続く韓国の保守主義はその限界が明白であり、朴正煕を否定しない限り右翼的権威主義に留まるでしょう。彼の政策が歪んだ「自由主義」を広め、個人の自由や多様性を制約したことは、今後も批判的に検討されるべきです。

8. 全斗煥政権

朴正煕大統領の掲げた「反共主義」「経済的介入主義」「国民保守主義」を中心とする保守派は、後に「オルドライト」(旧右派)と呼ばれるようになりました。この保守派は朴正煕暗殺事件後、全斗煥政権でも主流を占めていました。

この保守派は、特定のイデオロギーというよりも、朴正煕という指導者を中心に形成されていたため、韓国で「保守」の範囲を厳密に定義する必要はありませんでした。

李承晩(イ・スンマン)の自由党、朴正煕(パクてんチョンヒ)の民主共和党、全斗煥(チョン・ドゥファン)の民主正義党といった与党だけでなく、民主党や新民党、統一民主党といった野党も保守系と見なされていました。つまり、韓国における保守派は、独裁政権下では党派の違いを超えた広範な枠組みで存在していたのです。

9. 民主化と保守・革新の明確化

1990年1月、盧泰愚大統領(中央)、金泳三統一民主党総裁(左)、金鍾泌新民主共和党総裁(右)が緊急3者会合を持ち、3党を主軸にした新党創党を発表

1987年の民主化以降、保守と革新の区分がより明確化しました。盧泰愚(ノ・テウ)大統領時代、民主正義党(国民保守主義)は少数派与党として困難な状況に直面しました。盧泰愚はこれを打開するため、1990年に金泳三(キム・ヨンサム)の統一民主党(穏健保守主義)と金鍾泌(キム・ジョンピル)の新民主共和党(親朴正煕)との合党に踏み切り、「民主自由党」を結成。約217議席を擁する巨大与党が誕生しました。

ここで排除された金大中(キム・デジュン)の平和民主党の存在から、韓国の政治は「独裁 VS 反独裁」から、「保守 VS リベラル」になります。

一方で、新党内でも、金泳三を支持する「上道洞系」(穏健保守)と、盧泰愚と金鍾泌のオルドライトの対立が表面化。1993年金泳三が大統領に当選し、党内の民正系(盧泰愚)及び共和系(金鐘泌)と、軍内のハナフェ(12.12クーデターを起こした軍内非公式組織)を粛清し、自由貿易を推進するなど、韓国の保守派はより自由主義的な変化を迎えます。

金泳三大統領は従来の保守系大統領の中では自由主義に近いのですが、現代保守派で彼を支持する人は少ないですね。民主党出身ですし、韓国保守主義の父である朴正煕大統領と厳しく対立していた人だからではないかと思います。

10. ニューライトの登場

1997年のアジア通貨危機以降、ハンナラ党(民主自由党-新韓国党の後身)は金大中の民主党に政権を奪われ、保守派は再編を余儀なくされました。この中で現れたのが「ニューライト」(新右派)です。

ニューライトはアメリカ新保守主義の影響を受け、「経済的自由主義」「自由民主主義」「脱ナショナリズム」を掲げる一派です。「反日種族主義」の著者として有名な李栄薫教授がニューライトとして分類されます。

ニューライトの殆どは転向した旧マルクス主義者で、90年代にたくさん保守政党に入りました。

韓国で出版されているハイエクやミーゼスの著書はほぼニューライト系学者の翻訳書であるほど、自由主義を掲げています。しかし彼らの問題は、権威主義政権を称えているということです。朴正煕と李承晩大統領まで持ち上げ、韓国の国父として称えていますが、李承晩は経済的にも社会的にも全く自由主義ではありませんでした。

またニューライトは、財閥(独裁政権の支援で成長)や大企業の既得権を守るための介入に対しては何も言わない、ご都合主義の自由主義に近いので、注意が必要です。

同じ時期に、キリスト教右派も台頭しますが、韓国の教会は独裁政権の支援を受けて成長しただけに、ニューライトと徒党を組んで李承晩を国父扱いしています。(李承晩はプロテスタントでした)

11. 李明博・朴槿恵政権と経済民主化

仲が良くない李明博と朴槿恵

2007年の大統領選挙では、ニューライトが支持した李明博(イ・ミョンバク)が当選。一方で、オルドライトは朴正煕の娘、朴槿恵(パク・クネ)を支持しました。李明博政府の親企業政策(市場自由主義ではありません)を受け、2012年の頃は財閥に経済力が集中し、家計負債は増える一方でした。

金鍾仁と朴槿恵

こんな状況で保守派の注目を集めた政策が、経済民主化です。これを主張した金鍾仁(キム・ジョンイン)博士はドイツ留学生出身のオルド自由主義者(Ordoliberal、国家による秩序ある市場の維持を重視するケインズ主義とシカゴ学派の間の思想)です。

経済民主化を受け、朴槿恵は財閥改革や庶民福祉を掲げ、民主党から主導権を奪い、セヌリ党は総選挙、大統領選挙で勝利します。しかし大統領になった朴槿恵は経済民主化を排除、実現には至りませんでした。

朴槿恵政権はその後、国政介入事件を発端とした弾劾で幕を閉じ、保守派は大きな危機を迎えます。

12. 現代保守派の特徴と課題

保守は親朴の「自由韓国党」と、反朴の「正しい政党」で分裂されます。しかし二大政党制が強い韓国で正しい政党はあまり人気がなく、更なる分裂を経て、3年後自由韓国党へ合流します。そして保守派はニ回連続、総選挙で負け続けています。

その中で、「温かい保守」「新共和主義」を唱えた劉承旼(ユ・スンミン)議員や、「改革保守」を掲げ、従来の保守派が軽視していた機会の平等、能力主義、公正な競争、アンチフェミニズム、反検閲をテーマとし、20代男性の支持を集めた李俊錫(イ・ジュンソク)代表などがいましたが、大きな変化は見られません。

現在の保守派は、反共主義を重視するオールドライトと、親企業主義を掲げるニューライトが混在した形態であると評価されています。

しかし韓国の保守派が批判される主な理由の一つは、主張が常に同じであることです。韓国の保守派は「経済と安全保障は保守に任せるべきだ」とし、「北朝鮮が我々を脅かしている」とネオコン的な外交政策を掲げるのが特徴です。

しかしこれは、朴正煕時代から変わらない内容だと言われています。そのため、保守政党への投票率は高齢層以外年々低下しています。さらに、昨年の戒厳令の件により、韓国の保守は今や内乱を企てた政党とまで見なされています。それどころか、保守系の某議員は「大統領が正に大韓民国」だと、弾劾に反対しています。

ちなみに、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領のことですが、 就任前にフリードマンやミーゼスの著書を読んだと述べていましたが、実際には特殊活動費や外遊費用を増加させたり、海外直接取引の禁止を発表して批判を受け撤回するなど、自由主義の理念からは程遠い行動を取っています。特に、民主党の「予算削減」を口実に「反国家勢力」の処断を掲げ、戒厳令を発布したことは、彼が決して自由主義者ではないことを証明しています。

保守系与党の国民の力本部にかけられている李承晩、朴正煕、金泳三大統領の肖像画。
建国、近代化、民主化を成し遂げた保守派を意味するという。
しかし、金泳三は李承晩の四捨五入改憲に反対し自由党を離党した後朴正煕と対立した人で、朴正煕は李承晩を無能だと非難した人、李承晩は共産党出身の朴正煕に死刑判決を下した人。

こうした尹大統領の暴挙により、韓国の保守派は再び弾劾の危機に直面しています。建国以来、韓国の保守派は「自由」を掲げながらも、権威主義と親企業政策を推し進めてきました。韓国が現在抱える多くの問題は、こうした保守派の責任でもあります。自らの過去を振り返り変化を図らなければ、保守派に未来はありません。

最後までお読みいただきありがとうございました。


編集部より:この記事は自由主義研究所のnote 2025年1月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は自由主義研究所のnoteをご覧ください。